<MGB Who‘s Who

 

 「“The Man of MG”は誰か?」

 と尋ねれば、MGの歴史について多少なりとも知識のある人ならば、まず10人中7〜8人までは「セシル・キンバー」と答える事だろう。

 確かにセシル・キンバーは「サイド・ビジネスで少量のオリジナル・ボディも作るモーリス車販売店」にすぎなかった「モーリス・ガレージ」を、今に至るスポーツカー・ブランド「MG」に変えた立役者である。

 しかしそのセシル・キンバーはサー・ウィリアム・モーリスとの確執の中で1945年に列車事故によってこの世を去り、以来アビンドン工場が閉鎖されるまでの35年間(キンバーがモーリス・ガレージに入社してから死去するまでより、13年も長い事に注意)に渡って世界のモータリストに愛される車を作り続け、「MG」の名を支え続けた人々がいる。

 その中からMGBの誕生に特に深く関わった4人の人物について紹介する。

 

1. ジョン・ウィリアム・イエーツ・ソーンリィ

thornley 1909年6月、南ロンドン・ストリータムに生まれる。

アーディングリィとロンドン大学で教育を受けた後、ロンドン市役所で会計係として3年間勤務する。その期間中の1930年に、彼にとって最初のMGであるMタイプ・ミジェットを購入する。

 同じ年に英国の自動車雑誌「ライトカー」に掲載された「なぜMGカークラブがないのか?」という投稿を読み、その投稿者を含む他の数人と共にMGカークラブの創立者となる。

 1931年11月にセシル・キンバーの下で働くべく、サービス主任ジョン・テンプル(後のレース部門主任)のアシスタントとしてアビンドンに赴く。同時にMGCCの運営をアビンドンから行うようにした。

 1934年にサービス主任となり、J2の広報車が最高速度80mphに達しないという問題に直面する。この問題は500台のリコール騒ぎに発展し、MGにとって「供給できる以上の約束はしてはならない」という貴重な経験となる。

 彼はMGのレース面にも密接な関係を持ち、1930年代後半の「スリー・マスケッタース(三銃士)」「クリーム・クラッカース」の二つのトライアルレース・チームの運営も行った。

 第二次世界大戦勃発までサービス部門主任の座にあったが英国陸軍に召集され、1945年に除隊するまでに中佐に昇進した。アビンドンに戻り再び元の職務に就くと共に、1947年から49年までMGCC書記長(ゼネラル・セクレタリィ)となり、その後副会長となる。

 会社としては1947年に販売・セールス主任、1948年に副社長と足早に昇進し、1952年11月遂にジャック・タトロゥの後を継いでMGカーカンパニィ社長の座に就くこととなる。彼がアビンドンにやってきてから21年目の事である(ただし取締役となるのはこの少々後で、1956年である)。

 彼はその後17年間に渡って社長の地位にあったが、1969年に健康上の理由で退社する。実はこの年、MGは親会社BMCのレイランド・グループとの合併によりBLMC傘下に入っている。その後彼の健康は幸いにも回復し、MGとは密接な関係を保っていたようである。

 彼は長年に渡って「MG1」というレジストレーション・ナンバーを付けたMGB/GTを所有しており、彼とこの車の写真はMGB関係の書籍でもよく見かける機会の多いものである。彼こそがこのMGB/GTの開発の原動力であった(<Poorman’s ASTON−MARTIN>へ)。

 まさに彼こそが「ミスターMG」の名に相応しい人物であった。

 

 

 

2. アルバート・シドニー(シド)・エネヴァ

ENEVER 1906年3月ハンプシャー州コルデンコモンに生まれる。

 両親の離婚により母親と共にオクスフォードに移り、1920年南オクスフォード学校を卒業。そのまま徒弟としてモーリス・ガレージに入社した。実はこの時点ではまだセシル・キンバーはモーリス・ガレージには来ていない。

 1927年、セシル・キンバーに技術的素養を見出され、生まれ立てのMG実験部門でセック・カズン(MG最初の従業員)の下で働く。1929年には実験技術主任に昇格。以来EX181レコードブレーカーまでを含めたあらゆるプロジェクトに関係する。

 1935年にナッフィールド・グループがMGを吸収した後も、ほとんどの者がカゥリーに移ったにもかかわらずアビンドンに残り、1938年まで実験部門を率いる。

 1954年から退社する1971年までMGのチーフ・エンジニアであり、最後に手がけた量産車はMGB/GT V8である。

 

 

 

 

3. ドナルド(ドン)・ヘイター

hayter 1927年生まれ。

 1942年卒業と同時にプレスド・スティール社に入社。兵器の試作図面を量産図面に描き直す仕事に従事。戦後ジャギュアXK120、MGマグネットなどを手掛けるが、1954年にアストン・マーティン社に設計士として転職。アストン・マーティンがフェルタムからニューポート・パグネル(アストンの代名詞である)に移転する際に退職し、1956年始めに主任ボディ設計士としてMGに入社する。

 MGではシド・エネヴァの下でMGAツインカム、MGAル・マンカーなどのスタイリング/ボディ設計を手掛けた後、プロトタイプ段階からMGBのスタイリング・ワーク/ボディ設計を担当する。当時はまだ「カーデザイナー」は独立した職種として確立しておらず、ボディ設計者がデザインも行っていたためである。

 1968年に開発部門に移籍、MGB/GTベースの安全研究車両SSV−1やADO21プロトタイプ、MGC/GTを元にしたレーシング・スペシャルであるGTSのボディを手掛ける。

 1973年7月にロイ・ブロックルハースト(後述)がロングブリッジに移籍するため、後任者としてMGのチーフ・エンジニアに就任。MGBへの衝撃吸収バンパー装着改良などを手掛ける。

 彼は1980年10月22日のアビンドン工場閉鎖の日までMGに残った人々の一人である。

 

 

 

4. ロイ・ブロックルハースト

ROY 1932年に炭鉱夫の息子として生まれる。

 1947年の卒業と共に15歳で設計士見習としてMGに就職。エネヴァの手掛けたガードナー用レコードブレーカーのバルブ・ギアや特別聖クランク・シャフトなどの製図を行う。

 1952年から54年まで英国空軍で兵役に就き、その後デザイン設計士として復職、1956年に主任シャーシィ設計士に昇格する。MGB開発においてはドン・ヘイターがボディを担当したのに対し、シャーシィを担当した。

 1971年エネヴァが退職するのに伴いチーフ・エンジニアに就任した。1973年にメトロ/マエストロ/モンテーゴ開発のため、オースティン/モーリスのチーフ・エンジニアとしてBLMC本社のあるロングブリッジに転籍。1981年にゲイドンの新しい開発施設に置かれたBLテクノロジー社のチーフ・エンジニアとなる。

 しかし健康がすぐれず1988年に早期退職するものの、その年の4月に56歳の若さで逝去した。

 

 

 

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