<MG:「心情的スポーツカー」に対する心情>
「MG」と聞いて、あなたはどういうクルマを連想するだろうか?その形は、その人の年齢によっていささか異なるかも知れない。
トラディショナルなプロポーションにグラマラスなボディを纏い1992年に2000台の限定車として登場したRV8や、顔付きにこそトラッドな香りを残しているもののミッドシップ・オープン2シータースポーツという形態を持つMGF/TFも街中で目にする機会がめっきり減ってしまった。
一方それより更に頻度は低いものの路上で見かける事もあるMGB/ミジェットの姉妹に「スポーツカーとはこういうものだ」と心をときめかせる事があるなら、あなたは黄金の60年代に多感な時期を過ごしたのだろう。
「流線形」という言葉が相応しい丸みと「女性的」とさえ言える抑揚のあるボディを身にまとったMGAが雑誌のグラビアを飾る姿に思わずページをめくる手を止めるなら、あなたはジミー・ディーンやエルヴィス・プレスリーに憧れた1940〜‘50年代生まれだろうか。
自転車のように細いタイヤを履き、はばたく鳥の翼のように優美な弧を描くフェンダー(イギリス流には、まさに「ウィング」と呼ぶ)を持ったTシリーズ・ミジェット(「ミジェット」の名は1928年以来MGの小型スポーツカーの名称である)以前のモデルを思い浮かべる方は、日本に進駐してきたアメリカ軍の想い出も同時に蘇るかも知れない。
「MG」と言えば、やはり「スポーツカー」である。実際にはMGの有名な8角形のエンブレムを装着した4ドア・サルーンも数多く販売されていた(2012年10月現在では、MGの名を冠しているのはサルーン/ハッチバックのみである)が、多くの人々にとってはMGとそのオクタゴン・エンブレムは、なおライトウェイト・スポーツカーを示す記号であり続けている。
世界的なRVブームをよそに、こうしたトラディショナルなスポーツカーを愛する人たちの姿は自動車の歴史上絶えたことがない。特にその代表選手であったMGには世界的規模のオーナーズクラブのネットワークと、それを支える補給部品を供給するショップが、未だにしっかりとしたマーケットを築いている。
実はMGは最初にその名を冠したモデルの誕生が1924年と、現存している中では世界でも1〜2を争うほど古いスポーツカー・ブランドである。フェラーリ、ポルシェなど現在の名だたるスポーツカーはどれもほとんど戦後生まれで、戦前から今までスポーツカーとして残っているブランドと言えばジャギュア、アストン・マーティンあたりがせいぜいといったところだろう。
その中でもMGは企業としては一世紀に及ぶ歴史を誇っており、代表的なオーナーズクラブである「MGカークラブ」も60年以上の足跡を持っている。だがその軌跡は必ずしも平穏無事で幸福なものであったわけではない。それどころか英国自動車産業界を襲う盛衰の嵐の中で、ブランド消滅の危機に何度も翻弄されて来た。
それを跳ね返してMGをスポーツカー・ブランドとして今に至るまで生き長らえさせたものは、その時々におけるMGカーカンパニーの親会社の経営努力というよりは、むしろMGを愛する人々の存在だったと言えるだろう。
前述のMGカークラブは、当初はメーカーサポートを受けたセミ・オフィシャルなオーナーズクラブであったがその後当時の親会社であるBMCが自社の業績悪化を理由に閉鎖しようとしたことに抵抗して独立し、現在では日本を含む世界各地に支部を持つプライベート・モータリストクラブである。
さらに1973年にはMGの修理やパーツ供給を円滑に行うためのオーナー間の互助組織に近い形でMGオーナーズクラブが発足するや否や瞬く間に規模が拡大し、現在では世界中で会員数10万人を軽く凌駕するという、世界最大のワンメイク・クラブに成長した。
この両クラブは、1979年9月10日月曜日に当時の親会社である国営企業BLカーズが50年に渡ってMGの故郷であったアビンドン工場を閉鎖しMGBの生産を終了する、つまり事実上MGを消滅させると発表した時に、政府合同庁舎に対してMGカークラブ/MGオーナーズクラブ合同の「SAVE MG」デモを実施するという事も行った。
日本においても本国MGカークラブの日本支部として1963年にMGカークラブ・ジャパンセンターが設立され、それに続いて名古屋/神戸/広島/仙台/福岡(以上設立順)の各地にもMGのワンメイク・クラブが誕生して会報発行/走行会など、MGファン同士の親睦を深めると共にMGをより楽しむための様々な活動を続けている。
毎年10月にはMGカークラブ・ジャパンセンター主催によるMGオーナーの親睦イベントである「MGデイ」が長野県軽井沢市において開催されていたが、2012年に6年ぶりに第28回として復活したこのイベントはクラブメンバー以外の一般MGオーナーでも参加可能であり、70台以上の新旧様々なMGが紅葉をバックに芝生の上に並ぶ姿は壮観である。
技術的な視点からのみMGのクルマ達を見た時、なぜこれほどまで多くの人々がこれらのクルマを愛しこだわるのかは理解できないだろう。
基本的にMGのスポーツカー達はそのスペックデータや動力性能から「心情的スポーツカー」と揶揄される事もあるようにその時代の「入門用教科書」であり、絶対性能よりは扱い易さの方に主眼を置いて生まれている。そのメカニズムにしても既存のファミリィ・セダンの物をわずかにチューンしたエンジンやバネレート変更/スタビライザー装着などで若干ハードに固めた足回りなど、取り立てて見るべきものは皆無と言って良い。
スポーツカーにとって大きな魅力要素であるスタイルにしたところで、MG最大のライバルだったトライアンフTR4&スピットファイアが1960年代イタリアン・カロッツェリアの代表選手の一人ジョバンニ・ミケロッティの手になる男性的で派出な物であった時に、MGBやミジェットは自社デザインの飽きは来ないが押し出しは強くない端正な物だった。
なるほどさようにMGは「心情的スポーツカー」であるかも知れない。しかしこの言葉を逆に見れば「MGはまぎれもなく『スポーツカー』である」という事を示しているとも読める。MGのスポーツカー達は量産車の廉価な部品を適切なレイアウトに配し、「入門用」として初心者にもスポーツカーの楽しさを十分味わえるクルマに仕立て上げられているところに真骨頂があると言えるのである。
MGのポリシーを語る言葉として名高い「Safety-Fast」(「Safety−First」ではない)のスローガンが示しているように、そのハンドリングは決してシャープではないがダイレクトで、コーナリング限界に接近してもそれをドライバーに的確に伝える豊かなインフォメーション能力と、それにすら気づかない初心者が限界を超えてもそこからの挙動変化が穏やかというマナーの良さを持っている。アンダー・パワー気味のエンジンでさえ、限られたエンジン出力を的確なギア・シフトによって有効に活用するというスポーツ・ドライビングのもう一つの基本を学ぶのに相応しいものだとも言える。
これらの資質を備えたMGスポーツは、実は峠などでは遥かに高出力のクルマと伍して意外なほど手強い走りを見せる。それは単純に実力の80%しか引き出せない100馬力のクルマとMGスポーツのように90%まで引き出す事のできる90馬力のクルマとでは、ドライバーが活用している実質的なエンジン出力に差がないと見ることができる事によるのだろう。
現在のクルマから見れば悪い冗談のようにプリミティヴなメカニズムさえ、昔ドライバーを片手に時計を分解して親から叱られた経験を持つサンデー・メカニックが整備の真似事をして遊ぶにはちょうど良いオモチャというものだ。
ル・マン24時間耐久レースやモンテカルロ・ラリーなどコンペティション・フィールドでの豊富な経験を持つMGのスタッフが自分達のスポーツカーに、より先鋭的なスタイルや性能を持たせることは容易だっただろうが、それをすることによる価格の高騰と市場の矮小化による販売台数の縮小を避けたことが、広く長く愛し続けられるクルマとなった大きな要因だと考えることができるだろう。
こう書くと、どこかで見たクルマの話のような気がする人も少なくないのではないだろうか。1989年に登場するや否や瞬く間にブームを巻き起こし、ダイムラー・ベンツ/BMW/ポルシェ/フィアットなど、世界の名だたるメーカーに慌てて後を追わせることになった「ユーノス・ロードスター」である。
ユーノス・ロードスターがブリティッシュ・ライトウェイト・スポーツカーに範を取った事は、当時の開発主査である平井 敏彦氏や実験企画部門の長であった立花 啓毅氏自身が隠そうとしていない。立花氏に至ってはユーノス登場の半年前に行われたMGデイに自らレストアしたMGBで参加、見事コンクール・ドゥ・エレガンスで優勝プラークを受賞する際に「来年ウチも出しますから、見ててください」と言い残したほどである。
ユーノス・ロードスターとMGBとを諸元データ上で比較すると、車幅こそユーノスが広いもののそのサイズも重量も、実はきわめて似通っている。ユーノスが搭載したDOHCエンジンやダブル・ウィッシュボーン・サスペンションにしたところで、すでに軽商用車でさえDOHC/4バルブ・エンジンを搭載している昨今であれば、特別なメカニズムという訳でもない(事実歴代のMX5に搭載されたエンジンは大雑把に言って、マツダの小型サルーン用のセッティングを変更したものにすぎなかったという)。
登場直後にはその外観から初代ロータス・エランとの近似性を取り沙汰されたユーノス・ロードスターは、実はスピリチュアルな部分で「日本の製造技術で作られた、新車のMG」というべき性格のクルマと見た方が適切だと言える。
1997年にそれまでMGBが1962年〜1980年の生産期間に樹立し17年間保持し続けていた38万台という「2シーター・オープンスポーツカー量産記録」を、わずか8年で塗り替えたのがユーノス・ロードスターだったというのはある意味で象徴的なことと言える。
しかしMGにはあってユーノスにはない楽しさが、一世紀に及ぶ歴史と、洋の東西老若男女を問わず幅広い層を包含したモータリスト・クラブである。
様々な資料や当時を知る人から集めた情報によってそのクルマの背後に隠れている出来事を再構成するのは知的好奇心を刺激する面白さがあるし、モータリスト・クラブには仕事では出会うことができないような分野の人との出会いがある(因みにCG誌の小林彰太郎編集顧問、レーシングドライバー生沢徹氏や故三船敏郎氏などもMGカークラブ・ジャパンセンターの会員であり、元いすずのワークス・レーサーで自動車ジャーナリストの浅岡重輝氏は元会長である)。
ユーノス・ロードスターやMGF/TFという後継車を得たと言っても、やはりMGのスポーツカー達が「自動車趣味の教科書」であることは今も変わりない。MGBやミジェットは未だに基礎的なスポーツカー・ドライビングを学ぶ上での格好の素材だし、修理や改造、またクラブ・ライフや書籍・アクセサリーなどのコレクションなど、「MG」を玄関として入って行くことのできない自動車趣味のジャンルはないと言っても過言ではないだろう。
無論それぞれの分野でMGよりももっと趣味性の高いクルマは存在する。しかし誰にでもスポーツカーと共に暮らす事に伴う楽しさ(や苦労)を分かりやすく教えてくれるという点において、MGに優るものは他にない。
また自動車雑誌などでしばしば釣りにおける「鮒」やヨットにおける「ディンギー」に喩えられるように、趣味の対象としてMGは入口が広いだけではなくその奥行きも想像以上に深いものがあるのである。
だいいち教科書で合格点が取れもしないのに、参考書を読んだところで時間の無駄と言うものではないだろうか。
MGにしてもマツダMX5にしても、「スポーツカーだから愛されるのだ」と言うのは簡単だ。確かにスポーツカーは他のジャンルのクルマに比べて、ユーザーがこめる想い入れが大きいクルマである。しかしメーカー側がその想いに応えられて初めて時代を超えて人の心に残ることができるということは言うまでもない。
一握りの選ばれた人のためのクルマは素晴らしい。しかしより多くの人が楽しんでくれることを望み、それが商品に明確に反映されているMGに我々は尊敬と愛着を禁じ得ない。そこに「クルマを愛する人が作ったクルマ」の一つの姿を見るからである。
それがMGをして新車がない間でさえ世界中のモーター・フリークから愛され続け、一時はただのスポーティ・グレードにまで貶められていた名前が再びスポーツカー・ブランドとして蘇ることができた最大の理由ではないだろうか。