<MG:その変遷>

 

まず最初に質問を一つ。

 

「MGを生産しているメーカーはどこでしょう?」

 

いかかだろうか?すぐに答えられた方は相当な英国自動車業界通と言えるだろう。なぜなら「ローヴァ・グループ」という答えが当てはまるのは1986年以降だし、そのローヴァ・グループは1994年にBMWの手に落ち、更に2005年からは日の出の勢いの中国の資本下にあるからだ。

しかしロータスFFエランをマレーシア製と言ったり、現在のアストン・マーティンやジャギュアをフォード製だと言う人も希だろうから、これはまあ良しとしよう。

実はMGの歴史はそのまま英国自動車業界盛衰史を見るようなものである。MGは誕生以来様々な荒波やいわれのない不遇な時代を潜り抜けて来たのだ。

 

そもそもMGとは後にオースティンと並ぶ英国2大自動車企業の一方の雄であるモーリス・モータースを創立するウィリアム・モーリスが1913年に作った自転車/モーターサイクル販売会社「Morris-Garages」の頭文字である。この会社は入社した1921年の翌年に総支配人の座についたセシル・キンバーの指揮の下、1924年になってモーリス・モータースの生産するサルーンカーを基にスポーツ・モデルに改造したクルマの生産/販売を始めた。これが今に至る「M.G.」の始まりである(例えば大阪トヨタ販売株式会社がカローラをベースに「O.T.」というブランド名のスポーツカーの生産/販売を独自に行うようなものか)。

しかしこの「M.G.カーカンパニー」は、1935年8月に社のオーナーであるウィリアム・モーリスによってモーリス・モータースを筆頭とするナッフィールド・オーガニゼーションに売却され、ここで独立企業としてのMGは終焉を迎えることとなった。

こうして事実上モーリス・モータースに吸収されたMGだったが、クルマには現在のローヴァやジャギュアのように独自のメーカーズ・プレートを付け、形の上では独立した企業のような形になっていた。

この風向きが微妙に変化することになるきっかけは1952年に起こった。MGの親会社であるナッフィールド・オーガニゼーションが、事もあろうに国内最大のライヴァルであるオースティン・モーターカンパニーと合併することになったのだ。こうして誕生したのが「ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)」である。

このトヨタと日産の間で行われたに等しい合併劇の結果、BMCは何とモーリス/ライレィ/ウーズレィ/MG(以上、元ナッフィールド)/オースティン/ヴァンデン・プラ/オースティン・ヒーレィ(以上、元オースティン)の7つのブランドが同居することとなった。

当然これら車種の整理統合が必要となる訳で、これが各ブランドの行末に影響を与えないはずはなかった。MGにおいてもその影響は少なくなかったのである。

この頃アビンドン・オン・テームズにある工場を拠点とするMG開発部隊(そう、ブランドごとに開発部隊が存在していた)の製図版の上では、既に旧態化の始まったTDミジェットに変わる新MGスポーツ「EX182」が姿を現しつつあった。しかし合併相手のオースティン・モーターカンパニーでも独自のスポーツカーを生産/販売する決定が為されたばかりだったのだ。

そのクルマの名は「ヒーレィ100」。ドナルド&ジョフリィのヒーレィ親子の手によって、最高速度100mph(約時速160キロ)を狙ったミドクラス・スポーツで、発表の翌日にヒーレィ親子とオースティンによるジョイント・ヴェンチャーが成立して「オースティン・ヒーレィ100」と改名され、後にはMGアビンドン工場で組み立てられる事になる「ビッグ・ヒーレィ」である。

同じ屋根の下に同じようなスポーツカーが2台あることに難色を示したBMC首脳陣によってEX182は一時棚上げとされ、その代わりに急遽投入されたのがTDの進化版である「最期のTシリーズ・ミジェット」MG−TFだった。

結局このEX182は消滅を免れ、予定よりも3年遅れて「MGA」の名と共に世に出ることができた。しかしその心臓部は「生産設備の合理化」の大号令の下に、TFと同じOHV1500ccながらプロトタイプに搭載されていたモーリス製のXPEG型ではなく、生産性は良いものの構造的には劣るサイアミーズ・インテイクポート&カウンターフローのオースティン設計によるBタイプに変更されていた。

この事を嘆くMGファンはいたが、実は1935年にMGカーカンパニーがナッフィールド・グループに組み入れられた時にも同様のことが起きていたのである。この時はMG自製のシャフトドライヴ式OHCエンジンからモーリス製XPAG型OHVエンジンへの変更を余儀なくされたのだった。

さて「オースティン」のエンジンを持った「モーリス」ガレージ製スポーツカーMGAは、それでも「MGカーカンパニー」のメーカーズ・プレートを付けて1962年8月の生産終了まで10万台以上の生産台数を記録するという、世界最量販スポーツカーとして幸せな生涯を全うすることができた。

カタログ表記上「MGカーカンパニー」の文字に代わって「BMC」になるのはMGAの時代の事からだったが、シャーシィのメーカーズ・プレートは続くMGBの時代である1969年までそのままだった。

1966年BMCはその傘下に新たにジャギュア/ディムラーを迎え入れ、その名を「ブリティッシュ・モーター・ホールディングス(BMH)」へと改名した。しかしこの名は長くは続かなかった。わずか2年後に、BMCが誕生した時以上の大激震が英国自動車業界を襲ったからである。

1960年代に入った時、英国に残された民族資本量産車メーカーはわずか二つになっていた。一つは言うまでもなくBMC、もう一つが商業車のレイランドを中心に高級車ブランドのローヴァ、スポーティカーのトライアンフ、実用車のスタンダードからなる「レイランド・グループ」だった。

残る英国の自動車企業はGM傘下のヴォグゾール、英国フォード、そしてクライスラー傘下の「ルーツ・グループ(後のクライスラーUK)」というアメリカ・ビッグ3系列の会社であり、後は規模では遥かに劣る少量生産車メーカーのみだった。

1968年5月、BMHはレイランド・グループと合併し、新たに「ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)」を結成した。これは言わばトヨタ・日産・ホンダの大同団結で、民族資本自動車企業の最後の砦として総力を結集して海外資本のメーカーと戦おうというのが目的だった。

そして18年前に起きた事が、あたかもビデオ・テープのようにMGの身に降りかかってきた。アビンドンのスタッフは1970年にMGBとミジェットを統合するモデルチェンジ計画を持ち、それはイタリアン・カロッツェリアの雄ピニンファリーナの手になるFFスポーツスター(オープン・スポーツカー)「EX234」としてランニング・プロトタイプまで完成していたのである。

しかしMGAの時とは異なり、今度はBLMC設立がこのクルマを闇に葬ることになった。BMCの結婚相手であるレイランド・グループ側にはMGの長年かつ最大の喧嘩相手だったトライアンフという連れ子がおり、お互いの車種は完全な競合関係にあったのだ。

しかし同じ家族となったからには拳を収める以外にはなく、MGとトライアンフは生産合理化の名の下に車種整理を受ける運命にあった。

そこで新たにMGB/ミジェット/TR4・5/スピットファイアを統合するためのプロジェクトが、MGとトライアンフの社内コンペティションという形でスタートした。

しかしこの結果EX234にバトンを渡して天寿を全うするはずだったMGB/ミジェットは後継車開発を白紙からやり直す時間を稼ぐために、マイナー・チェンジによって更に延命を余儀なくされる事になった。これはライヴァルだったトライアンフも同様だった。

因みにBLMCの組織の中ではMGはオースティン・モーリス部門の一員とされ、カタログ上も「ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション  オースティン・モーリス・ディビジョン」という表記がなされた。そのためちょうどBMC→BMH→BLMCという変遷の時期のカタログ(MGBではMk.2が正にこの期間にあたる)には、まったく同じデザインにもかかわらず印刷時期によって裏表紙のメーカー名の記載が異なるものが3種類存在する。

 

さてこうしてさらに大きな組織の中に組み込まれたMGだったが、市場からの反応はかんばしくなかった。と言うよりも、BMCのBLMC化自体が不評だったと言える。生産合理化も思うようには進まず、BLMCの国内シェアは下がる一方だった。

かくして1975年5月26日、BLMCは英国政府に対して国営化を申請、時の労働党政府は7年間の再建策と共にBLMCを新たに「ブリティッシュ・レイランド(BL)」とし、旧ディビジョン制を廃して、乗用車(レイランド・カーズ)/商用車(レイランド・トラック&バス)/レイランド・スペシャル・プロダクツ/レイランド・インターナショナルの4部門に再編成することにした。

このプランは政府委託によるBLMC国営化に対する調査委員会の委員長に任命された経営学者サー・ドン・ライダーの名を取って「ライダー・レポート」と呼ばれた。

同時にこの年MGの将来を暗示させる車種が世に出た。「トライアンフTR7」である。

前述のMG対トライアンフの新型スポーツカーの社内コンペにおけるMGの提案はミッドシップ・クーペのADO21だった。これに対するトライアンフの提案は開発コード「ビュレット」という名のFR2シータークーペだった。

この軍配はトライアンフに上がった。勝敗を分けたのは設備投資額である。ミッドシップのADO21はそのメカニカル・レイアウトのため既存の生産設備の流用がしにくいという弱点を抱えていたのである。しかしそのウェッジ・シェイプのボディ・スタイルはTR7に受け継がれたという説もある(このADO21が「幻の『MGD』である」とする説がある)。

何にせよBLの新型スポーツカーが世に出たことで、生産開始からすでに13年が経過していたMGBが遠からずTR7のバッジ・エンジニアリングモデルに後を譲ることは明らかだった。事実TR7にMGのオクタゴン・エンブレムを付けた試作車<BOXER>の写真も残されている。

しかし輸出戦略車種であったTR7は、販売上完全な失敗策であった事が時を経ずして明らかになった。攻略すべき最大の市場である北米で、事もあろうにTR7はついにMGBの販売台数を上回る事ができなかったのである。しかもMGBの方はクローズド・クーペであるこの新型スポーツカーに道を譲るためにハッチバック・クーペのMGB/GTをTR7と入れ替わりに輸出市場のカタログから落としていたにもかかわらず、である。

さらに国営化されたBLの業績も好転どころか悪化の一歩だった。国営化以前の74年に32.7%あった英国国内シェアは、3年後の77年には24.3%と大幅に低下してしまったのだ。

かくしてライダー案の失敗が明らかになった77年11月、英国国家企業庁<NEB>は新たに会長として75年の「ヤング・ビジネスマン・オヴ・ジ・イヤー」マイケル・エドワーズを3年の任期で送り込み、彼は翌78年2月に新たな再建策を発表した。

これはいったん統合した乗用車部門を再度ディビジョン制に戻し、大衆車部門の「オースティン・モーリスLTD」、高級車部門の「ジャギュア・ローヴァ・トライアンフLTD」、そして部品部門の「BLコンポーネンツ」の3部門に分割し、前2者は各々独自に開発/生産/販売計画を推進するというもので、MGは「オースティン・モーリス」の一部門とされていた。唯一ディビジョンに名を持たないブランドとして。

78年7月1日、BLはもはや「ブリティッシュ・レイランド」のイニシャルではなく、ただの「BLカーズ・リミティッド」となった。78年9月にはMGはまるで継子のように「オースティン・モーリス」部門から「ジャギュア・ローヴァ・トライアンフ」部門に担当替えとなった。

その後はと言うと79年5月15日にはご存知の通りホンダと業務提携契約を締結、79年9月10日月曜日(MGの世界では「暗黒の月曜日」と呼ばれている)には前の週まで創立50周年を祝っていたばかりのMGアビンドン工場の閉鎖とMGBの生産終了が発表され、9月30日にはMGカークラブ/MGオーナーズクラブ合同の抗議デモが政府合同庁舎に対して行われた。

しかしその甲斐もなくMG消滅まで10ヶ月に迫った79年12月には再度MGの身柄は「オースティン・モーリス」部門に戻され、そのまま1980年10月22日に最期のMGBがラインを離れた。その2日後、残務整理を終えたアビンドン工場は永遠にその門を閉ざした。

 

その後BLは81年10月7日にホンダとの業務提携の直接の産物であり最期のトライアンフとなったアクレイムを発売。82年5月に社名はBLリミティッドのまま「オースティン・ローヴァ・グループ」が生まれる一方で、5月5日にはミニ・メトロのスポーティ・ヴァージョンとしてMGの名は復活した。しかし7月1日には元々MGの親会社だったモーリスの名が2年以内に消滅すると発表され、またトライアンフの名はアクレイムの生産終了の84年6月9日をもって消滅した。

その2ヶ月後の8月10日にはジャギュア/ディムラーがいち早く分割民営化を果たして独立し、これでBLに残された乗用車ブランドは事実上ローヴァ/オースティン/MGの3つということになった。

86年7月には正式に社名が「ROVER GROUP PLC(Public Limited Company)と変わり、ここでついにオースティンの名も消滅することになり果てたのである。

さらにその後「鉄の女」マーガレット・サッチャー首相の方針でローヴァ・グループは88年3月30日に、航空産業を中心とする企業BAeの手に引き取られて念願の民営化を果たす事が公表された。

1992年には当時の治具を用いて少量再生産されていたMGBのモノコック・ボディを基にエンジン換装/内外装のリフレッシュなどを行ったRV8が2年間2000台の限定生産車として発表され、MGB生産終了以来12年ぶりにオクタゴン(八角形)のバッジがスポーツカーに与えられた。

しかしその一方で密かにホンダに対するローヴァの売却交渉を行っていた親会社BAeが、突如ローヴァ・グループのBMWへの売却を発表した。寝耳に水のこの話に、ホンダはそれまで所有していたローヴァ株の放出と業務提携の解消を通告、2年後の94年3月18日に正式にローヴァはBMWのものとなった。

MGにとってこれは憂慮すべき事態だったと言える。なぜなら当時すでにRV8に続いて開発中の新MGスポーツカーの存在は公然の秘密であり、あわや「歴史は3度繰り返す」かと思われた。BMWでもローヴァ同様にマツダMX5の影響を受けたスポーツスターを開発している事も公然の秘密だったからである。後のZ3である。

しかし今回は杞憂で終わった。ご存知のように1995年3月7日、ジュネーヴ・モーターショウにおいてMGB生産終了以来15年ぶり、MGBデビューから数えると実に33年目にして真の意味での新MGスポーツ<MGF>が無事デビューを果たしたのである。

これはすでにレンジ・ローヴァを除いて北米市場から撤退していたローヴァがMGFの対米輸出計画を持たなかった反面、BMWのZ3ロードスターはBMWの北米工場で生産するというアメリカ・シフトを引いたクルマだったためにうまく住み分けができたということなのだろう。

 

こうして歴史を振り返ると、MGがいかに星回りの悪いメーカーであったかが痛感される。不思議なのはそれにもかかわらずMGが世界中で根強いファンを獲得しその力がMGを外から支え続けたということと、そうした確固たる力を持っていることが明らかなブランドをBLMCなどが積極的に活用しようとせず、むしろ冷遇したかである。

それが巷間噂されるように旧トライアンフの人間による継子いじめの結果だったとしたら、これほど馬鹿げた話はない。しかしそんな馬鹿な会社だったからこそ、国際競争の荒波の中でなす術もないまま衰退していったと言えないこともないのかも知れない。

 

 補遺:

結局のところローヴァ・グループは、その骨の髄まで染み付いた慢性的赤字体質に耐え切れなくなったBMWによって、レンジ・ローヴァ(フォードに売却)とMINI(BMWに残置)を抜かれた形で、2000年5月10日に元の社長であるジョン・タワーズ率いる資本グループにわずか10ポンドで売却された。

 そして同年9月9日、ローヴァ・グループはその名を「MG Rover Group」に変更した。

 

 補遺2(2005年4月17日記入)

 再び名実共に英国自動車製造企業となったMGローヴァ社だが、その後MGを商品ラインナップの中のスポーティ・ヴァージョンと位置付けるべく「X-POWER」と名付けたチューニング部門の設定(スバルにおけるSTi、日産におけるNISMO等に相当か)、MGFからTFへの大幅なマイナー・チェンジ、レーシングマシン・コンストラクターとして著名なローラ社とのコラボレーションによるル・マン24時間耐久レースへの参戦、ローヴァ25/45/75のMG仕様の投入、そしてフラッグシップモデルとしてSVを2003年に発表した。

 このSVは欧州の好景気の中で企画された「デ・トマゾ マングスタ」の復活コンセプト・モデル(オリジンとは見事なほど無関係だが)を基にした、それこそバッジ・エンジニアリングモデルであるように見える。エンジンはフォード・マスタング用の4.6リッターV8をベースにした326馬力で、これをフロント・ノーズに搭載して後輪を駆動して最高速度320km/hを標榜するスーパースポーツ・クラスの2シーター・クーペであり、少なくとも過去のMGブランドとの繋がりはあまりに希薄であるとは言える。

 しかしあまりにも長年に渡って染み付いた赤字体質からは脱却することができなかったと見え、中国・上海汽車との提携に活路を見出そうとしたものの失敗、2005年4月15日に管財人の管理下で解体される方向で処理が進められる事が公表された。

 「MGのブランド使用権の売却」という形でオクタゴン・マークが市場に残る可能性はゼロではないが、そうした形で世に出されるMGが80年に渡ってブランドを支えてきた全世界のファンの希望に沿うものであるかどうかは定かではない。

 

 補遺3(2016年7月29日記入)

 2016年7月現在、MGは中国資本下でブランドとしては未だ健在である。しかしここまでの過程も、決してスムーズとは言えなかった。

 2005年に管財人管理下となった事は前述の通りなのだが、そのMGローヴァの買い手として中国の南京汽車公司(NAC)と上海汽車公司(SAIC)が競ったあげく、企業規模の小さい南京汽車の手に落ちて「NAC MG UK ltd」となったのが2005年7月。しかしその後2007年12月に南京汽車自体が上海汽車に買収されたため、資本関係上では紆余曲折のあげくに結局上海汽車傘下となった事になる。そして2009年、社名は遂に「MG MOTOR UK ltd」となり現在に至る。

 ブランドとして散々辛酸を舐め、冷遇されてきたMGだったが、何と英国伝統の量産車ブランドとして最期に生き残ったのはそのMGだけだったという事実こそ「歴史の皮肉」そのものと言うものだろう。

因みにブランドとしての「ローヴァ」は「レンジローヴァ」と共にインドのタタ自動車が使用権を保有しているが、上海汽車はローヴァ75(1998年発売開始)を自社生産とした「栄威(ローウェ)750」を現在でも販売している(MG版のMG7は中国のみで2013年まで販売)。

 現在のMGのラインナップはコンパクトカー/セダン/SUVで、各々MG3・MG5(現在は販売終了?)/MG6/MGGSであり、MG6においては当初5ドア・ハッチバックが「GT」で4ドア・サルーンが「マグネット」というMGの伝統を意識したサブネームが付与されていたが、現在は4ドア・サルーン3車種のみでサブネームはなくなっている様子である。

 MGの金看板であるスポーツカーはMG−TFがロングブリッジ工場で生産され続けていたが2011年に生産終了した。1995年発売を開始したMGF時代から通算して16年、何とローヴァ・グループ→MGローヴァ→MGモーターとメーカーの名は3度変わった事になる。このあたりも前任のMGBを思わせるところのある生涯だった。

 そしてMG−TFの後継については取り沙汰はされているものの未だ確定はしていない模様で、スポーツカー・ブランドとしてのMGは復活の日を見ていない。

 

contents