Bee-V in the magazine (MG World 編)
<うらばなし>
その話が舞い込んだのは2003年7月31日、当時僕が所属していたMGクラブのメーリング・リスト上の事だった。
当時海外渉外を担当されていたMさん(現会長)の元に、英国で老舗「MGエンシュージャスト・マガジン」誌に並ぶもう一冊の定期刊行誌である「MGワールド」誌の記者から、取材申し込みが来たのだと言う。
取材したいのは「モディファイされたMG」ということらしいのだが、当時クラブで最もモディファイされたMGと言えば、はばかりながらBee-Vが最右翼であるのは自他共に認めるところだ。
しかしここに問題が一つ。取材日が僕の勤める会社の夏期休暇前の最終日で、なおかつ実家が札幌にある僕はまさにこの日の夜に敦賀港からフェリーで北海道に向かう計画だったのだ。
とは言え僕自身定期購読していたこともあるMGワールド誌にBee-Vが取り上げられるという魅力には勝てず、会社を休んで取材に協力することにした。
ところが、である。まさにこの取材日が近付いてきたのと歩を合わせるように、南の海から台風が日本に接近し始めたのだ。結局この台風10号は、念の入ったことに取材日当日の8月8日に関西に上陸したのである。
取材は2日に渡って行われた。初日は8月7日で、この日は夜にN事務局長邸でN氏自身とクラブに対する取材。そして翌日が僕のBee-Vの取材だった。
8日の午前中に行われたインタビューの時は、まだ空は曇りだった。ところがいざ撮影のために走り出すのを待っていたように雨が落ち始め、それは我々の期待に反して決して弱くなる事はなく、時間と共に本格的な嵐となる様相を呈してきた。
それでも雑誌を飾るからには屋根を上げる訳にも行かず、僕はほとんど泳ぐがごとき運転を強いられる事になったのである。
さて、そうした苦労を秘めた記事の出来栄えは・・・?
残念ながら最終号となってしまった通算41号である2003年12月号のMGワールド誌に掲載されたのが、これからお見せする記事である。
しかし英語独特のニュアンスがあったり、インタビューを受けた僕の語学力の拙さが災いしてか内容の一部に僕の言ったのとは違うものもあり、そうした点については訂正を加えてあるので、原文とは若干異なるものとなっていることをあらかじめお断りしておく。
Corkey.O
「日本のオモチャ」
文 :Bluce Black
訳 :Corkey.O
写真:Graham Harrison
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日本人は英国車を、とりわけMGを愛している。我々はあるエンシュージャストと、MGカークラブの地方支部を見つけ出した。 <見出し> Corkey.O氏は、日本におけるMGの主要なオーソリティの一人である。MGB V8を所有しようという彼の情熱は、一風変わったところから発している。SF小説である。 <本文> 日本においては、全ての事が時間通りに進む。我々を東京から神戸まで、時間きっかりに運んだ弾丸列車「新幹線」は、2時間47分後の定刻きっかりに到着した。この正確性を持ってすれば、台風「エタウ(訳注:台風10号の欧州名か?)」が朝6時半に神戸を直撃することが予想されていたことも驚くに値しない。 Corkey.O氏が彼の愛する1977年製MGB V8を我々に見せようという情熱は、台風による激しい風と大量の雨よりも強かった。悪天候が面白い写真と走りを生み出すことについて、彼にはまったく説明する必要はなかったのである。 44歳になるCorkey氏は、日本の第二の大都会である大阪の近郊の、神戸の近くに住んでいる。MGBの細かい事やMGの歴史、または神戸MGCCの活動に没頭していない時、彼は所属している企業の国内店舗ショールーム設置に関するプロジェクト・マネージメントをしている。「僕はMGBに18年乗ってます」と彼は言う「僕が最初のMGBを買ったのは、1985年のことでした」 Corkey氏は明確にMGを買うと決めていた訳ではなかった。「僕は2シーターで屋根のないスポーツカーに決めていたんですが、その時僕等が買えたのは外国車だけだったんです」彼は説明する。マツダMX5やスズキ・カプチーノやホンダ・ビートは、単に存在していなかったのだ。そのためCorkey氏の買い物リストにはトライアンフ・スピットファイア、TR4、ポルシェ914そしてMGミジェットなども含まれていたのだが、結局彼が選んだのは1978年製のMGBだった。「MGBはとても手頃でした。と言うのも多くの物件があったのです。日本レイランドは1978年から1980年の間に約1600台のMGBを輸入していました」とCorkey氏は説明する。 彼の最初のMGBは1978年モデルで、「極めて低い性能」だった。Corkey氏はそのクルマのモディファイに着手した。サスペンションを下げ、キャブレターを交換した。そうしてそのクルマはより運転して楽しいものになったのだ。そしてその事が、彼がこの道に取りつかれるきっかけだった。「僕は自動車の歴史が好きで、MGはそうした点で面白い過去を持っています。僕はMGBに関する幾つかの本を買い、伝統の全てを学ぶ事を楽しみました」と彼は認めた。 そうした事の始まりから、Corkey氏はやがてMGの歴史における日本の優れたオーソリティの一人となった。実際、青島文化教材社がMGBのプラスティック・モデルを作ったとき、彼は監修者として招聘された。 最初のMGBを買った4年後、Corkey氏はコーナリングに若干熱中しすぎてガードレールに衝突した。日本におけるスポーツカーの選択肢は増えていたのだが、Corkey氏は再びMGBを選んだのである。「神戸MGカークラブはMGエンシュージャスト同士のとても素敵な集まりで、MX5では同じようなものを見つけることが出来ませんでした。それで僕の次のクルマは1973年製のMGBになったのです」 しかし再び性能とパワーが問題だった。「このクルマは僕のたった1台のクルマでしたし、僕はしょっちゅう乗ったものです。僕はこのクルマに、もう一つ満足できるものが欲しかったんです」SUキャブレターを装着した後でさえ、Corkey氏は彼が望むパワーに欠けると感じていた。そして彼のジレンマに対する回答は、風変わりな所からもたらされた。「僕は日本のマンガ本を見つけました。『感傷戦士』というタイトルの日本のSF小説です」と彼は微笑みながら回想する。「その本の中で、主人公はMGB V8ロードスターに乗っていました。その日から、僕はこれが僕の求めていた車だと心に決めたのです」 |
1989年になって、彼の所属する会社は彼を東京に転勤させ、彼は1995年にそのMG販売店に向かった。そこで彼は店の社長と会った。MGB V8はまだそこにあり、Corkey氏は価格を290万円(約15000ポンド)に下げさせるべく交渉した。彼は彼のMGBを売ってV8を買うのを躊躇しなかった。「そのV8は10年間ショールームにいたのです。丁度『眠れる森の美女』のようにね」とCorkey氏は言う。「それは全面的な分解整備を受けて、それから僕のものになりました」 そのクルマはイギリスから1985年に船積みされたのだが、Corkey氏はこのクルマについて元々のコンバージョンはV8コンバージョン・センターで行われたという、ほんのわずかな歴史しか探し出すことができなかった。その後東京にあるピッカースレイロード・ガレージの手によって日本に運ばれ、購入者はたった2年で店に返したのだった。 そのクルマのすべてはCorkey氏が夢想していたものだったが、彼はそれにもかかわらず幾つかの改良を施した。「もしもブリティッシュ・レイランドがV8ロードスターをカタログ・モデルとして作っていたら、どういうものだったのだろうかというのが僕のアイディアでした」と彼は言う。 Corkey氏は幾つかの外観上の変更をさせたが、にもかかわらずボディはコンベンショナルなままに残している。ワイド・フェンダーもないし、エアインテイクもなくオリジナルのボンネットのままである。「僕のMGB V8のスタイルはイギリスでは珍しくないと思います。しかし日本では、たった1台なのです」と彼は主張する。このクルマのような後期型MGBは、ボンネットの中の形状はファクトリィ製V8と合致しており、そのためコンバージョン作業はまったくストレートにできるというのはある程度その通りである。例えばV8のために必要な前進位置のラジエーターはすでに備わっているし、シャーシーに取り付けられたエンジン・マウント用ブラケットは両者で共通である。一方1976年以前のモデルのコンバージョンでは、より基礎的な作業を多く要求される。 Corkey氏の指示の下に行われた改造はマークT用ラジエーター・グリルを1974年仕様のマーク2ブラックメッシュ仕様に代え、ボンネットをアルミ合金製に変更し、取り外し式幌を付け、1973年仕様の外観とするためにラバー・バンパーをスチールに交換した。仕上げに対するCorkey氏の個人的な寄与は、クルマに幾つかのV8バッジを付けたことである。 エンジンは排気量3528ccのSD1仕様で、出力は165馬力である。このクルマがイギリスにいた時に、オリジナルのボンネットをそのまま付けられるような低いエアクリーナーをホーリィ・4バレル・キャブレターに組み合わせてモディファイされた。それはまたオッフェンハウザーのデュアルポート・インテイクマニーフォールドを持ち、カスタム・メイドの排気系を持っている。ギアボックスもまたローヴァSD1から持ってきている。 これ以外のモディファイはクルマが日本に来てから施されたものである。パターンの付いた布製シートは本革に代えられ、前後サスペンションのスプリングはレース仕様のものに代えられている。これはより乗り心地は固いが、完全に日常用途に使えるとCorkeyは言う。彼はまたトルセンLSDも装着した。 Corkey氏にとって、定期的な整備は半ば義務と化しており、結果としてエンジンは気持ちよく力強い音をたてる。日本の法規は2年毎のMoT式のテストを規定しており、すべてのクルマは排気ガス対策をしていなくてはならない。Corkey氏は触媒コンバーターを付けているが、改良は外側だけであり、性能になんら悪影響を与えてはいない。 「補給部品の価格は妥当なものです。僕はそれらをイギリスから直接取ることもできますし、東京には良いショップがあって1日かそこらで送ってきてもらうことができます」とCorkey氏。「タイヤは標準サイズで、これも妥当な価格です」 Corkey氏は彼の<Bee−V>を運転することが大好きで、少なくとも週に1度は走らせるようにしており、月に250マイルほどに達する。しかしランニング・コストは非常に高い。2000cc以上の年間自動車税は350ポンドで、古いクルマに対する優遇はない。これに対して燃料の方は安く、だいたいリッターあたり50ペンスほどである。またV8は都市で18mpg、開けた道路で30mpgほどの燃費を示すことはグッド・ニュースである(訳注:高速道路100Km/h巡航で12Km/l以上を記録した事がある)。 「神戸周辺の関西地区には、交通量の少ない多くのワインディング・ロードがあります」とCorkey氏は説明する「そういう環境の中でMGBを運転するのは、とっても楽しいことです」神戸MGカークラブの別なメンバーは、Corkey氏のモア・パワーという欲求について証言した。「僕が出したことがある最高速度は170km/h(105mph)ですが、クルマのポテンシャルは230km/h(142mph)あります」と微笑むCorkey氏は語る。 Corkey氏はMGBの性能とハンドリングに対するヴィヴィッドな熱情を持っている。このクルマに対する賛辞はお世辞ではない。「有り余るパワーと軽さ、応答性の良いハンドリングを持っています。これは僕の理想のクルマです」彼は熱心に語る「ステアリングは反応が良いです。そりゃあロータス7なんかのように敏捷という訳じゃないんですが、僕にとってはMGB V8はスポーツカーの教科書なんです。もしコーナーへの侵入が速過ぎてリアが流れ出しても、僕は自分のミスを正すことが出来ます。他のスポーツカーだと、そんなことを許しちゃくれません」と彼は説明する。 天候のせいで、彼はここに掲載した写真を撮るために耐えなければならなかったが、Corkey氏の運転能力には疑いはない。彼はクルマを落ち着きと注意深く制御された技術で操った。また彼の抑えられない熱情も疑いがない。Corkey.O氏は彼のMGB V8ロードスターについて、歩きながら、話しながら、運転しながら、微笑みながら語るのだ。 <写真キャプション> Corkey氏のMGBの外観はクラシック・ロードスターにとても良くマッチしているが、ローヴァSD1V8エンジンが搭載されている。内装は黒の本革で、後付けのステアリング・ホイールと、極めて日本的な衛星ナビゲーションシステムが付いている! |
Corkey.O氏は神戸MGカークラブ発足時の1987年にクラブに入会した。MGクラブのアイディアはN氏の発案によるもので、彼は卒業後故郷である神戸に戻り、MGについて語る人が少ない事に気が付いた。大学にいる間に彼は名古屋のカークラブに所属していたので、これは大いに寂しい事だった。 クラブはひっそりと始まった。ある日買い物に出掛けたN氏は、別のMGを見かけて、そのクルマを追い掛け、神戸での生活のために基本的に必要なのはMGクラブであると持ち主を説得した。 「彼は私と同世代で、一緒にクラブを興す事に同意しました」とN氏「私はMG1100とジネッタG4を持っていましたが、私の心は純粋なMGにありました」 我々はN氏を彼の邸宅、いやより正確には彼のスペシャル・ガレージに訪ねた。それはあたかもMGの全てのための寺院のようだった。壁やキャビネット、ショウ・ケースに飾られたグッズ類、ミニチュア、スペアパーツ、広告販促物。中でも最高位を占めるのは初期の1936年製PBエアラインと1933年製J2である。 N氏は日本のクラシックカー雑誌(訳注:『スクランブル・カーマガジン』のこと)にクラブの旗揚げを掲載した。7人のMGオーナー達が神戸地区から応えた。その中の一人がCorkey.O氏であり、会の発足式は1987年7月に開かれた。現在クラブには57名の会員がおり、ほとんどが現在でもMGのオーナーである。すべての自動車クラブ同様に会員は様々で、年齢は25歳から70歳まで、職業は教授、会社の社長と重役、学生、技術者などである。「彼等の背景は重要ではありません」とN氏「我々はすべてMGに対する興味を持っており、それが我々を一つに結び付けているのです」 クラブのスローガンは彼等のMGへの献身を如実に示している。「ドライヴィングを芸術と捉える人々のためのクラブで、我々は『伝統の継承』の精神を誇りとしている」というものである。そしてさらに「故郷アビンドン・オン・テームズを遠く離れたもの達のための家である」と記されている。 クルマの種類はオーナーによって様々である。何台かのミジェット(一人の会員はレストアの様々な段階にある5台を一人で所有している)、MGB、RV8、それに加えて戦前のJ/K/M/Pタイプなどである。 日本におけるMGのアピール度は興味津々というものだが、N氏の見解ではその一部は第二次世界大戦と結び付いているという。「戦争の後、アメリカ軍が日本に駐留した時、兵隊の中で英国のスポーツカーを持って来た人達がいます」とN氏は説明する「子供だった世代は金髪の兵隊が屋根のないスポーツカーを飛ばすのを初めて見て育ったのです。今60歳くらいのそうした人達は、それにとても大きなインパクトを受けたのです」 「MGはそうした兵士達の間で、非常にポピュラーでした。何故ならMGは日本においてさえ手頃な価格で、維持するのも簡単だったのです。日産/ダットサンは様々なBMCのモデルをコピーしており、部品はMG、特にTDやTFに使うことができたのです」 N氏はそうした第一印象を持つには若すぎるが、一方彼が兵士の話を聞いて写真を見たのは8歳の時だった。「そうしたクルマは多くが赤で、一般的に『MG』と呼ばれました」とN氏は回想する。 神戸MGカークラブは日本では多くの中の一つにすぎない。その中の主たる一つはイギリスのMGカークラブの支部の一つMGカークラブ・ジャパンセンターである。5年前、MGCJCはMGサミットとして6つの地区のMGクラブの中心点となることに同意した。「我々には日本の北から南までクラブがあります」とN氏は言う「年に数度代表者が集まって、いかにしてMGを日本でポピュラーにするか、いかにしてオーナー達に助力するか、いかにしてクラブを運営するかについて討議します。会員の合計は340名ほどであり、彼等すべてはお互いにコミュニケートすることができます」 神戸は雨期である7月を除く月例のミーティングなど、とても活動的なクラブである。ラリー、旅行、パーティなどを含むクラブによって開かれるイベントには、50から80%の会員が参加する。クラブはまたイギリスに出掛けて様々なMGのイベントに参加する旅行も組織している。 <MGに動かされる> クラブの創立者で現在事務局長であるN氏はMGと共に生活し、呼吸している。そうでない時は、彼は某在阪家電企業の課長職にある。 N氏は一連のMGを所有しているが、彼の夢はクラシカルなシェイプのJ2のようなクルマを所有することだった。「私が最初所有したのは今も持っているMG1100と、私が自分でレストアしたジネッタG4です。私はG4を良い値段で売り、それが戦前のMGを買う資金になってくれました。イギリスのクラシックカー業者である友人のジェリー・ワドマンが1989年にJ2を見つけてくれました」 1994年にもう一台の戦前のMGが続いた。N氏は1936年製PBエアラインクーペ(わずか14台だけが作られた)が、スコットランドでバラバラのパーツとして見つかったことを聞き込んだ。完成したクルマが日本に船積みされるまで、レストアレーションには6年を要した。 それからレストアの虫がN氏を噛み、現在彼は1932年製J2をリビルドしている。板金作業やエンジニアリングの訓練を受けていないにもかかわらず、彼は恐ろしい仕事をこなしている。「私はアメリカから幾つかのビデオとボディを形作るための工具を購入しました」とN氏は言う「私は独学で使い方を学びましたが、それは日本では誰もこの種の仕事の仕方を知らなかったからです」彼はまたエンジンもリビルドする。彼はそのやり方を覚えるのは比較的簡単であることを発見した。それが終わった時、N氏はJ2を東京の近くのサーキットで年に数回行われているクラシック・レースに出場することを計画している。 J2とエアラインは頻繁に外に持ち出され、年に3000マイルをカバーする。「神戸の人は誰でもJ2を知ってますよ。何故って、いつも見てますから」N氏は語る「とても運転して面白いし、ステアリングも軽くて、とても反応が良いのです。エアラインは重いので、もっと落ち着いていますね」 N氏は神戸MGカークラブの次のイベントのことを熱っぽく語る。8人の会員と英国を旅するのだ。彼のMGのすべてに対する燃え盛る情熱が、彼が「故郷アビンドン・オン・テームズを遠く離れたもの達のための家」に新たに付け加えるものを見つけるのだと誰しもが推測する。 |