Mr.STRANGELOVE        

Corkeyの異常な愛情  

 

or how I learned to stop buying LOTUS and love the B

または、いかにして私はロータスを買うのをやめてMGBを愛するようになったか

 

 

100年を超える自動車の歴史の上で、MGBという車種が果たした役割は何だったのだろうか?

「進歩的な技術」?重いOHVエンジンとSUキャブレターが?

「目を見張る性能」?<MAGIC100>に毛が生えた程度の最高速度しか持っていなかったのに?

「芸術的な美しさ」?道行く人々をすべて振り返らせるほどの美人とは、いくら何でも言いすぎだ。

「新しいジャンルの創設」?1934年以来のMGスポーツの伝統の延長線上にいただけのことだ。

 

しかしMGBはユーノス・ロードスターに抜かれるまで世界最量販2シーター・オープン・スポーツカーだったし、欧州で選出された「CAR OF THE CENTURY」の100台の中にもしっかりと選出されている。

MGBは一握りのマニアが幅を利かせる“スポーツカー”というカテゴリィにあって、生まれた時から初心者のための入門編であったし、今でもそうあり続けている。

いかなるマニアもエンシュージャストも、ビギナーであったことのない者はいない。将来の夢がフェラーリであれポルシェであれ、初めはMGBから始まった者も決して少なくはないだろう。

そうした意味でMGBが自動車の世界にもたらした最大の功績とは、限られたマニア向けというイメージのスポーツカーを身近なものにし、多くの自動車ファンを生み育てた母であった事かもしれない。

子供はいずれ母親の下を巣立って行くのが定めであるにしても。

 

僕が事実上「MGB」という英国のスポーツカーを意識したのは、まだ高校生の頃のことである。

それまでもいっぱしのカーキチを自他ともに認めていたペーパー・エンシュージャストの僕は、MGBという車種の存在は認識していたものの、それほど評価していた訳ではなかった。

何しろ自動車免許が取得できる年齢までは(少年の意識の上では)永遠に近いほど隔たっていたから、興味の対象となるのは自ずから雑誌での掲載も多いフェラーリであり、ジャギュアであり、ロータスなどの見映えのするスーパー・スポーツ達だった。

それがニキビも出来て、恋愛の真似事もするようになる高校生ともなればボチボチ免許も取れる歳に近づき、自分のクルマを手に入れるというのも(青年の意識の上では)現実味を帯びた話になってくる。

そうなると実際に自分が調達できる元手(資金源が親であれ、アルバイトであれ)を考えれば憧れのフェラーリやロータスなどというのはただのピロー・ドリームにすぎず、俄然イギリス製のライトウェイト・スポーツの一派がクローズ・アップされてくる(何しろユーノス・ロードスターが登場するのはそれから10年も後の話である)。

僕が故郷・札幌でMGBの展示車を見たのはそうした頃だった。

今となってはそれが正確にいつの事だったのかは定かではないのだが、市内中心部にあるホテル・ワシントンで開かれていたその展示会は、日本レイランドがとあるスポーツカーの日本発売開始を機に主催した総合展示会だったのではないかと思う。それからすると1978年秋あたりの話だったことになる。

そのスポーツカーとは本国では1975年から発売されていたトライアンフTR7だった。その傍らにあったのが、忘れもしないレイランド・ホワイトのMGBウレタンバンパー後期型だったのである。

この時MGBは1962年の市販開始からすでに16年。幌を上げたまま展示されているMGBを見た僕は、ナマイキにも「こんな古いクルマを、よくも『新車でござい』と売るもんだ」と呆れたことを今でも思い出す。

しかしそう言いながらも最新のTR7とドライバーズ・シートを乗り比べた僕は「でも、どうせ買うんだったらMGBの方が良い」とも思ったのだから、今に繋がる素地はすでにあったのだろう。

その時はまったく思いもよらないことだったのだが、正にこの10年後僕は色もその時と同じレイランド・ホワイトのMGBウレタンバンパー後期型の1台を最初のMGBに選んだのだった。

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以来、途中で3台乗り継ぎながらMGBは常に僕と共にあった。最初のMGBを手に入れた時は、まさかこうなるとは思ってもみない事だった。

懐具合やランニング・コストに対する懸念からMGBに収まったとは言え、僕の第1の選択肢にあったのは「オープン・2シーター・スポーツ」であり、いっぱしのペーパー・エンシュージャストの脳裏にはロータス<オリジナル>エランやロータス・セヴンの一族がまだ住み着いていたのである。あくまでMGBはそれらに至るまでの腰掛けにすぎなかった。

その意識を変えさせたのはMGB自身であり、またMGBをきっかけとして拡がった僕の趣味世界だった。

MGBは(と言うよりも『オープン・スポーツカーは』と言うべきかも知れないが)僕が想像していたよりも遥かに心地良いものだった。

確かに細かなトラブルや夏の暑さには閉口させられる事もあったのだが、緑の田舎道を駆ける時の爽快感や由緒正しいスポーツカーのオーナーであるということのプライドはそれを補って余りあるものだったのである。

そして「MG」をキイ・ワードとすることで年齢や職業の壁を取り払って親しく交際できる場であるモータリスト・クラブの存在が、それに一層拍車をかけた。

MGBはスポーツカーの世界の新入生である僕にとって、ABCから教えてくれる教科書として最適の題材だったのである。

 

その頃の日本では妹にあたるミジェットの方がより趣味性が高いと見なされており、雑誌などではむしろMGBに対しては冷淡とも言える論調が主だった。

自分の好きなものはより深く詳しく知りたい、また他人にも認めて欲しいと思うのは人の常である。元々開発裏話的なものが好きだった僕はMGBのそれについての洋書を買い始め、またそれらを自分なりに再構成した記事を所属するクラブ「神戸MGカークラブ」の会報<クリーム・クラッカース>に寄稿するようになった。

それらの記事と、パソコン通信時代を迎えて自ら開設したフォーラム「えむじい亭」のために書き上げた記事がこのWebの元となった。

このWebに載っている記事はそれら過去に書き溜めてきたものを、集大成として再構成したものである。

そのため一部すでに目にされている文章もあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

 

注:

主に英国車において、モデル・ライフの中での改良を区別するのに用いられるのが「マーク・ナンバー」である。しかし30年間に及ぶMGBの歴史の中で行われた数度の改良において、メーカーはそれらを公式に「マーク・ナンバー」では識別していない(少なくとも市場において公表してはいない)。

そのためMGBに関する様々な文献においてこの「マーク・ナンバー」呼称に差異が見られるのだが、ここでは型式記号と外観の差異に基づく呼称を用いるものとする。

なおMk.3における4種類の分類呼称は、独自のものであるので留意いただきたい。

 

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