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MG CHRONOLOGY |
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※本稿は、主として「MG:THE UNTOLD STORY」を基にして、「MG by McCOMB」などの資料で補完したものである |
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■:人事 ■:経営 ■:製品 ■:競技 □:その他 ※青文字は訳者 |
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YEAR |
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EVENTS |
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ウィリアム・モーリス |
セシル・キンバー |
H.N.チャールズ |
レオナード・ロード |
セック・カズン |
シドニィ・エネヴァ |
ジョン・ソーンリィ |
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1961 |
3月25日 |
セブリング12時間レース。2台のMGA1600デラックス・クーペがサンビーム・アルパインの挑戦を退けてクラス優勝。ジム・パーキンソン/ジャック・フラハティ組がドライヴしたナンバー44(シャーシィ・ナンバー100148)はクラス優勝(総合14位)、一方ナンバー43(シャーシィ・ナンバー100149)のピーター・ライレィ/ジョン・ウィットモア卿組はクラス2位(総合16位)でフィニッシュした |
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1961 |
春 |
レイランド・モータース、スタンダード・トライアンフ社を1800万ポンドで買収 |
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1961 |
5月 |
オースティン・ヒーレィ スプライトMk.2発売 |
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1961 |
6月 |
948ccAタイプ・エンジンを搭載し、オースティン・ヒーレィ スプライトMk.2発売の4週間後にMGミジェットMk.1(GAN1)発売。両車共オリジナル<フロッグアイ>スプライトから生まれたもので、良く似ており、ドナルド・ヒーレィのMGのスタイリングをオースティン・ヒーレィに合わせるという主張に多くを負っている。樹脂製で赤背景にクロームMGオクタゴンが組み合わされた黒い盾形エンブレムが初めて使われ、後にMGB/MG1100にも用いられる |
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1961 |
6月10日〜11日 |
ル・マン24時間レース。テッド・ランド/ボブ・オルトフ組がSRX210(ゼッケン58)で3度目で最後の参戦。今回は特製の流線型のノーズ/エア・インテイクを備えている。彼等は15ラップ後にエンジン・トラブルでリタイア |
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1961 |
6月 |
MGA1600Mk.2、1622ccBタイプ・エンジンを搭載して発売 |
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1961 |
7月 |
ミニクーパーが997ccAタイプ・エンジンと共に発売 |
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1961 |
7月26日 |
ドン・ヘイターによる通常型リーフ・スプリング式リア・サスペンションに改良したMGBの設計完了 |
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1961 |
9月 |
ロイ・ブロックルハースト、MGのプロジェクト・エンジニアになる。3年後、彼はエネヴァ(55歳)のアシスタント・チーフ・エンジニアになる |
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1961 |
9月18日 |
MGマグネットMk.4発売(モーリス・オクスフォードMk.6/オースティンA60ケンブリッジ/ライレィ4/68/ウーズレィ16/60と一緒)。失望する販売に終わった最初の世代の<ファリーナ>の代替 |
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1961 |
9月30日 |
マーカス・チャンバース、<コンプス>(訳注:アビンドン・コンペティション部門の通称)を去る。彼の地位はスチュワート・ターナーが継ぐ |
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1962 |
1月 |
モンテカルロ・ラリー。2台のMGが参戦。ゼッケン314(151ABL)のMGA1600クーペはドナルド&アール・モーレィ兄弟のドライヴでクラス優勝(総合28位)、ゼッケン44(YRX747)のミジェットはピーター・ライレィとマイク・ヒューズのドライヴでクラス優勝(総合33位)を獲得した |
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1962 |
春 |
手叩きによる1242ポンド(563.37キロ)の軽合金製特製ボディを備えた3台のミジェットを、ディック・ヤコブとジョン・ミルンのためにMG開発部門が制作。2台はディック・ヤコブの下に行き、彼の所有下で主にアラン・フォスターとアンドリュウ・ヘッジズによってレースに参加した。2台は1965年3月のセブリングのために工場に戻される事になる |
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1962 |
3月 |
10万台目のMGAがアビンドンで製造される。その車両はメタリック・ゴールドの外装にクリーム色の本革内装で仕上げられ、ゴールド塗装のワイヤ・ホイールを履いており、ニューヨーク・モーターショウに展示された |
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1962 |
3月24日 |
セブリング12時間レース。ワークスMGAとしては最期のセブリングになる。3代のMGA1600Mk.2デラックス・クーペからなるチームは、エキュリエ・セーフティ・ファストからの参戦となる。ゼッケン51(シャーシィ・ナンバー106073)はジャック・シアーズとアンドリュウ・ヘッジズのドライヴでクラス4位(総合16位)。ゼッケン52(シャーシィ・ナンバー106074)はボブ・オルソフとジョン・ウィットモア卿のドライヴでクラス6位(総合20位)。ゼッケン63(シャーシィ・ナンバー106075)はジャック・フラハティとジム・パーキンソンのドライヴでクラス5位(総合17位)。この結果はサンビーム・アルパインが優れた成績を収めている事から明らかなように、MGAがもはや競争力を失っている事を示していた |
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1962 |
5月6日〜10日 |
チューリップ・ラリー。ラウノ・アルトーネンとグンナー・パルムのチームはMGA1600クーペをドライヴし、彼等のゼッケン11号車(151ABL)は総合15位でフィニッシュしクラス優勝を獲得した。これはMGAにとって公式な最期の勝利である。ゼッケン59(YRX737)のミジェットはトミィ・ゴールド/マイク・ヒューズ組のドライヴでクラス3位(総合38位)でフィニッシュした |
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1962 |
5月22日 |
最初の量産型MGB(左ハンドル/アイリス・ブルーのGHN3−102号車)完成。総計で12台の量産車が5月中に生産(唯一の右ハンドル車であるGHN3−101号車を含む)。量産は9月の発売開始に向けて徐々にペースを上げて行く |
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1962 |
6月 |
アルパイン・ラリー。ゼッケン23のMGミジェット(YRX737)がJ.ウィリアムソン/ダヴィッド・ハイアム組のドライヴで出場したが、入賞せず |
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1962 |
7月 |
MGA1600Mk.2、MGB発売に先立って生産終了。最終号車のシャーシィ・ナンバーはGHN2−109071 |
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1962 |
8月29日〜9月2日 |
リエージュ-ソフィア-リエージュ・ラリー。ゼッケン49のMGA1600Mk.2クーペ(151ABL)がジョン・ゴット/ビル・シェパード組が参加し、燃料タンクのリークでリタイア。これがMGA最期の遠征である |
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1962 |
9月20日 |
ADO23MG・MGB発表。新型1798cc仕様のBタイプ・エンジンを搭載。依然として3メイン・ベアリング(5ベアリング・エンジンは1964年中に導入される) |
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1962 |
10月2日 |
MG1100(ADO16G)発表。ハイドラスティック・サスペンションとツイン・キャブレターを搭載し、1098ccAタイプ・エンジンを横置きに搭載 |
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1962 |
10月17日 |
アールズコート・モーターショウ。MGミジェットMk.1とオースティン・ヒーレィ スプライトMk.2が948ccユニットに替えて1098ccエンジンを載せて展示される。ミジェットはGAN2となる。ショウはまたMG1100、MGB、トライアンフ・スピットファイアもデビューを飾った。スピットファイアはBMCの小型スポーツカーに対抗する事を意図していた |
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1962 |
11月 |
RACラリー。たった一台のMGの参戦はゼッケン11のMG1100(977CBL)。ルパート・ジョーンズ/デイヴィッド・シーグル−モーリス組によりドライヴされたが、ピストンの破損でリタイア |
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1963 |
1月 |
モンテカルロ・ラリー。2台のMG1100とミジェットが参戦。ゼッケン158のミジェット(YRX747)のルパート・ジョーンズ/フィリップ・モーガン組がクラス優勝。MG1100についてはレイモンド・バクスター/アーニー・マクミラン組のゼッケン268(399CJB)はクラス4位でフィニッシュしたが、ジョン・カフがドライヴしたゼッケン162の方は別の参加車に衝突されてリタイア |
1963 |
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1963 |
3月23日 |
セブリング12時間レース。MGBにとっては参戦した2台ともリタイアするという不名誉なデビューとなった。どちらの車もオイル漏れに起因するエンジン・トラブルによるリタイアである。ゼッケン47(7DBL)はジム・パーキンソン/ジャック・フラハティが、そしてゼッケン48(6DBL)はクリスタベル・カーリッスル/デニス・マックルゲージがドライヴした。3番目の車(8DBL)は用意されたがレースはしなかった。レース後に6DBLは費用を軽減するためにアメリカで売却され、一方7DBLは1964年5月にリストから落とされる |
1963 |
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1963 |
4月4日 |
MGBのオーストラリアでの組み立てがBMCのニュー・サウス・ウェールズ州ゼットランド工場で始まる |
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1963 |
6月15日〜16日 |
ル・マン24時間レース。MGB(ゼッケン31、シャーシィ・ナンバーGHN3−3699、登録番号7DBL)シド・エネヴァによってデザインされたロングノーズを装着してただ1台参戦。パディ・ホプカークとコンビを組んだアラン・ハッチソンのプライヴェート参加の形である。レースの間、ハッチソンはコースを外れて砂に突っ込み(ミュルザンヌで)、結果として1時間半かかって車を掘り起こす事になった。これにも関わらず彼等は総合12位でゴールした。平均速度は時速91.96マイル(時速147.99キロ)だった |
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1963 |
8月22日 |
ナッフィールド卿(ウィリアム・モーリス)逝去。享年86歳 |
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1963 |
9月 |
ツール・ドゥ・フランス。MGBはゼッケン155(7DBL)で、アンドリュウ・ヘッジスとジョン・スプリンゼルによってドライヴされ、事故によってリタイアした |
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1964 |
1月 |
新年の叙勲者の中でジョン・ソーンリィがOBE(大英帝国勲章)受章者となる。空軍訓練部隊での貢献によるものである |
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1964 |
1月 |
ジャッキース・クーンのMGBベルリネッタがブリュッセル・モーターショウでデビュー |
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1964 |
1月 |
モンテカルロ・ラリー。全ての目がミニ・クーパーに集まったが、MGBも完走した。MGBゼッケン83(7DBL)はドン/アールモーレイ兄弟によってドライヴされ、GTクラスで優勝(総合17位)。同じ車は6月のスコティッシュ・ラリーで同じモーレィ兄弟によってリタイアした。もう1台参戦したのがMG1100ゼッケン243(399CJB)で、トミー・ウィズドムとJ.マイルズによってドライヴされた |
1964 |
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1964 |
2月11日 |
MGB後継車EX234の開発作業がMGのデザイン・オフィスで始まる |
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1964 |
3月9日 |
MGミジェットMk.2(GAN3)発売。MGBに似た新型のウィンドゥ・スクリーンと三角窓を持つ。同時にオースティン・ヒーレィ スプライトもMk.3となる |
1964 |
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1964 |
3月21日 |
セブリング12時間レース。クジェル・クヴェイルによって、6月のル・マンに参戦する事になるBMO541Bを含む3台の新車参戦。エド・レスリィとジョン・ダルトン組はゼッケン47をドライヴしてクラス3位(総合17位)、ジム・アダムスとマール・ブレナン組はBMO541Bでクラス4位(総合22位)、一方ジャック・フラハティ/ジム・パーキンソン組のゼッケン46はリタイアに終わった |
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1964 |
4月 |
ジャッキース・クーン、彼のMGBベルリネッタ・クーペ改造車をウォルター・オールドフィールドに送る。BMCでMGB/GTの代替としての可能性を図るためである |
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1964 |
6月20日〜21日 |
ル・マン24時間レース。MGワークスは1台のロングノーズ仕様MGB(ゼッケン37、シャーシィ・ナンバーADO23/986、登録番号BMO541B)で、パディ・ホプカークとアンドリュウ・ヘッジズのドライヴで参加。彼等は総合19位でゴールしたが、平均速度は時速99.95マイル(時速160.85キロ)だった |
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1964 |
夏 |
Bタイプ・エンジンを200cc拡大して2000ccとする研究開始 |
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1964 |
8月26日〜30日 |
スパ−ソフィア−リエージュ・ラリー。この年は伝統的な公道レース形態の有名なラリーの最期となった。3台のMGBのどれもフィニッシュできなかった。ゼッケン38(8DBL)はプライベート・エントリィでデイヴィッド・ハイアム/ルパート・ジョーンズがドライヴ。ゼッケン78(BRX853B)はポーリーン・メイマン/ヴァレリィ・ドムレオ組、そしてBRX854Bはジュリアン・ヴィルニューヴがドライヴした |
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1964 |
9月 |
ツール・ドゥ・フランス。ゼッケン153(BMO541B、ロングノーズ付)のMGBはアンドリュウ・ヘッジズ/ジョン・スプリンゼル組のドライヴで参戦したが、ヘッド・ガスケットの破損に起因するエンジン・トラブルでリタイア |
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1964 |
9月 |
オースティン1800(ADO17)、新型5ベアリング仕様Bタイプ・エンジンを搭載して発売開始。モーリス1800は1966年3月まで発売されず |
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1964 |
10月 |
5メイン・ベアリング仕様Bタイプ・エンジンが3ベアリング仕様に代わってMGBに搭載される |
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1964 |
10月15日 |
英国総選挙の結果、ハロルド・ウィルソン党首の労働党に政権が戻る |
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1964 |
11月 |
RACラリー。ジョン・フィッツパトリック/ジョン・ハンドレィ組のドライヴで参加したMGBゼッケン177(BRX854B)は事故後リタイア。MGBゼッケン39(BRX853B)はポーリーン・メイマン/ヴァレリィ・ドムレオのドライヴで、クラッチ・トラブルでリタイアに終わった |
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1965 |
3月27日 |
セブリング12時間レース。BMCは4台のMGをチームとして参加。チームはMGBと、元々ディック・ヤコブがレースに使っていた特注軽合金製ボディのミジェットから構成された。セブリングには珍しく天候はレース中に悪化したが、MG達は豪雨にもかかわらず完走した。マール・ブレナン/フランク・モレル組のMGBゼッケン49(BMO541B)はクラス2位(プロトライプ・クラス10位/総合25位)、ゼッケン48(DRX256C)MGBのブラッド・ピカード/アル・ピーズ組はクラス6位(GTクラス10位/総合32位)だった。2台のミジェットに関しては、ゼッケン68(771BJB)のロジャー・マック/アンドリュウ・ヘッジズ組が輝かしいクラス優勝(GTクラス12位/総合26位)、一方チャック・タンランド/J.ワグスタッフ組のゼッケン82(770BJB)はリタイアした |
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1965 |
5月9日 |
タルガ・フロリオ。ゼッケン44(771BJB)MGミジェットGT<ヤコブ>クーペがパディ・ホプカーク/アンドリュウ・ヘッジズ組によってドライヴされ、クラス2位(総合11位)でフィニッシュした |
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1965 |
6月19日〜20日 |
ル・マン24時間レース。MGはロングノーズ仕様MGB(ゼッケン39、DRC255C)をパディ・ホプカーク/アンドリュウ・ヘッジズ組の手に委ねた。彼等は平均速度時速98.25マイル(時速158.11キロ)で11位を獲得(完走14台)。これはル・マンにおけるMGの最後の完走だった |
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1965 |
7月 |
BMC、プレスド・スティール社に発注を行う。これは1965年9月に効力を発揮する |
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1965 |
7月22日 |
ローヴァ、アルヴィスを買収 |
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1965 |
10月20日 |
MGB/GT、アールズコート・モーターショウで発表 |
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1966 |
1月 |
モンテカルロ・ラリー。20年間のMGの最後の参戦は1台のMGBだった。「オールド・フェイスフル(忠実な老人)」として知られるようになったゼッケン183(GRX307D)はトニィ・フォールとロン・クレリンがドライヴした。オイル・パイプのすりむけのためにリタイア |
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1966 |
3月26日 |
セブリング12時間レース。BMCは参戦を拡大する事を決め、その結果として、受賞する潜在力のあるプロトタイプ車の1台として参加した。その車は特別に排気量を拡大し2004tにしたBタイプ・エンジンを搭載した8DBLだった。悲しい事に、その期待に応じられずエンジン・ブロックの横に穴が開き、パディ・ホプカークはレース終了にあとほんの2時間のところでリタイアを余儀なくされた。MGBゼッケン59(HBL129D)はピーター・マントン/ロジャー・マック/エメット・ブラウンのドライヴでクラス優勝(GTクラス3位/総合17位)を獲得した。一方プライベート参加のMGB(ゼッケン84/85/86)のうちロジャー・ウェスト(84号車)、アルバート・アッカーリィ&アーク・マクニール(85号車)、そしてエミー・クローチャー&ピート・グレナン(86号車)もリタイアした |
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1966 |
5月8日 |
タルガ・フロリオ。ティモ・マキネン/ジョン・ローデスが<オールド・フェイスフル>MGBゼッケン64(GRX255D)をドライヴし、2リッターGTクラスとGTクラス総合で優勝。総合では9位。MGBゼッケン66(JBL491D)はアンドリュウ・ヘッジズとジョン・ハンドレィがドライヴし、2リッターGTクラス2位/GTクラス総合3位で完走した。レースは450マイル以上を走破し、71台の出走で完走30台だった |
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6月 |
レオナード・ロード(ランバリィ卿、70歳)、BMC取締役会から退任。ジョージ・ハリマンが取締役会議長となり、ジョー・エドワーズがマネージング・ディレクターとなる |
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1966 |
8月24日〜28日 |
ニュルブルグリングでマラソン・デ・ラ・ルート84時間レース。<オールド・フェイスフル>MGBゼッケン47(GRX307D)はジュリアン・ヴィルニューヴ/アンドリュウ・ヘッジズがドライヴし、5260マイル(8464.92キロ)を走りぬいて総合優勝という大いなる名誉と共にゴールした。MGBゼッケン46(BRX855B)はロジャー・エネヴァ(シドの息子)/アレック・プール組がドライヴしたが、レース終了5時間前まで<オールド・フェイスフル>の後を追って2位にいたのだが、不満が残る事に車軸トラブルでリタイア |
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7月11日 |
BMCとジャギュアが合併に同意、12月に締結される |
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1966 |
9月9日 |
自動車運輸安全法がアメリカ議会を通る。1968年1月1日に包括的に効力を発揮する |
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1966 |
10月19日 |
MGミジェットMk.3(GAN4)、アールズコート・モーターショウで1275ccAタイプ・エンジンを搭載して発表。同時にオースティン・ヒーレィ スプライトはMk.4になる |
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1966 |
11月3日 |
アビンドンでMGCの生産前組み立てが始まる。BMCが提案したオースティン・ヒーレィ3000Mk.4をヒーレィが拒絶したわずか2ヵ月後である。開発と試験のために13台が製造された |
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1966 |
12月11日 |
レイランド、ローヴァとの合併交渉を終え、1967年3月に発効される |
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1966 |
12月14日 |
BMCとジャギュアが共同持株会社「ブリティッシュ・モーター・ホールディングズ(BMH)」を作る事を発表。ジョー・エドワーズがジョージ・ハリマン卿の下でBMHチーフ・エクゼクティヴの座に着く |
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1967 |
2月 |
アンソニー・ウェッジウッド・ベン、英国下院でレイランドとBMHの意向確認の話し合いを暴露 |
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1967 |
3月 |
スチュワート・ターナー、BMCコンペティション部門を去る。彼の後任にはピーター・ブロウニングが就く |
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1967 |
3月末 |
最初のMGB/GTライトウェイト・レーシング・プロトタイプ(MBL546E)がアビンドンで形になる |
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1967 |
4月1日 |
セブリング12時間レース。MGB/GTの初の公式エントリィ。<オールド・フェイスフル>MGBゼッケン48(GRX307D)は1824tBタイプ・エンジンを搭載されてチモ・マキネン/ジョン・ローデスがドライヴし、GTクラス3位(総合12位)で完走。MGB/GTゼッケン30(LBL591E)は2004tBタイプ・エンジンを搭載し、パディ・ホプカーク/アンドリュウ・ヘッジズのドライヴでクラス優勝(プロトタイプ・クラス3位、総合11位)。ゲリィ・マグウッド/レイモンド・グレイ組のプライベート参加のMGBゼッケン49はサスペンション・トラブルで完走できず |
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1967 |
5月14日 |
後に著名なMGC/GTSとなるライトウェイトMGB/GT(MBL546E)が、2004ccBタイプ・エンジンを搭載してタルガ・フロリオに出場。セブリング仕様に準じているが、ツインSUキャブレターで150馬力/6000rpmになっているところが異なる。始めは全てのBMCコンペティションのワークスカーと同じく赤く塗装されていたが、最終段階でイベント規定によりナショナル・レーシング・カラーである事が求められている事に気付き、外装パネルはブリティッシュ・レーシング・グリーンに塗り直された。MGC/GTS(バッジ上は「MG GTS])はMGB(MBL547E)に伴ってシシリィ島に渡った。前者はゼッケン230を付けてパディ・ホプカークとティモ・マキネンに委ねられ、クラス3位(総合9位)でフィニッシュした。MGBの方はアレック・ヘッジズとアレック・プールがドライヴし、道路から外れて木に衝突、レースからリタイアした |
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1967 |
6月5日 |
イスラエルとアラブ諸国の間で6日戦争勃発。アラブ諸国は英国とアメリカに対して石油の禁輸を宣言 |
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1967 |
7月 |
MGC生産開始。GCN−101(MGCトゥアラー)/GCD−110(MGC/GT) |
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1967 |
10月18日 |
MGC、MGC/GTそしてMGBMk.2をアールズコート・モーターショウに展示 |
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1967 |
10月18日 |
MG1100Mk.2発売、同時にADO16シリーズ全体のフェイスリフトも実施される。共通項目は内装(特にダッシュボード)の改良であり、テールフィンとテールランプの形状変更がある |
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10月19日 |
BMC、ロイ・ヘインズがほどなく子会社であるカウリィのプレスド・スティール・フィッシャーのデザイン部長に任命され今後は彼が全てのBMCスタイリングの責任を持つと公表(ディック・ブルジはロングブリッジの彼の小さなスタジオを維持するつもりだったが、ヘインズに報告した)。ヘインズは英国フォードからヘッドハントされて来た。彼はよく売れた1966年のフォード・コルティナMk.2に大きな役割を果たした |
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1967 |
10月 |
総理大臣ハロルド・ウィルソンの招待によって行われたジョージ・ハリマン(BMH)とドナルド・ストークス(レイランド)との間のチェッカーズでの会合を受けて、BMHとレイランドの間で合併に向けた真剣な討議が行われた。 |
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1967 |
11月6日 |
ジョージ・ハリマン卿とジョー・エドワーズの承認の下に、ロイ・ヘインズの指揮下の新しいデザイン・センターがカウリィに開設される。 |
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1967 |
11月 |
アメリカ安全/排ガス規制適合の1号車がアビンドンで作られる。「アビンドン・ピロー」と呼ばれたダッシュボードの安全パッドと2系統ブレーキを装備 |
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1967 |
12月21日 |
オースティン・ヒーレィ3000Mk.3、生産終了(しかし後に1台のみ本国向けに1968年5月に作られる) |
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1968 |
1月1日 |
アメリカ安全規制が執行される |
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1月 |
ハリス・マンがフォードからオースティン・モーリス・スタジオに入社 |
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1968 |
1月17日 |
320万ポンドの合併によりレイランド・モーター・コーポレーションとBMHがブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーションとなる事が公表される(5月14日から実行)。車両はオースティン・モーリス(MGを含む)と特別車両(独立した取締役会を持ったローヴァ/トライアンフ/ジャギュア)に分けられる。最初の数ヶ月の間ドナルド・ストークスは自らオースチン・モーリスを動かす |
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1968 |
3月23日 |
セブリング12時間レース。<メイベル>MGC/GTSプロトタイプのセブリング・デビュー。ゼッケン44(MBL546E)。パディ・ホプカークとアンドリュー・ヘッジズのドライヴ。クラス優勝を獲得(プロトタイプ・クラス3位、総合10位)。MGB/GTゼッケン66(LBL591E)はゲリィ・ロドリゲス/リチャード・マクダニエル/ビル・ブラックのドライヴでクラス5位(総合18位)。1台のMGミジェット(実際はオースティン・ヒーレィ スプライトLNX628E)はジェリィ・トゥルーイット/ランドール・キャンフィールドによってクラス5位(スポーツカークラス5位、総合15位)。ミジェットはドナルド・ヒーレィ・モーター・カンパニィのプライベート参加で、BMCの要請によってMG仕様にコンバートしたものである。その後その車はもう一度オースティン・ヒーレィに戻されて売却される。地元のプライベート参加のMGB(ゼッケン67)はクリス・ウォルドロン/ジェームズ・ギャモン/ベン・スコットのドライヴによって誇りあるクラス7位/総合31位を獲得した |
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1968 |
3月 |
オースティン・アメリカはMG仕様ADO16を変更。新型車は2ドア・ボディを元にしており、AP社製4速自動変速機を標準としていた |
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4月 |
MG1300がMG1100Mk.2に置き換わる |
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1968 |
4月 |
ジョー・エドワーズ、BLMC設立を前にBMHを退社。元トライアンフのエンジニアのハリー・ウェブスターとジョージ・ターンブルはオースティン・モーリスを預かるロングブリッジに異動 |
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1968 |
4月8日 |
MGマグネットMk.4生産終了 |
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1968 |
5月14日 |
ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)発足 |
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5月22日 |
ロイ・ヘインズ、ジョン・バーバーにメモを書く。ADO28ファミリィ(MG仕様を含む)に対する彼の提案の説明である。 |
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1968 |
8月 |
ハリー・ウェブスター、将来のオースティンとモーリスの計画を表明。オースティンは先進的な設計と保守的なスタイリングだが、モーリスは保守的な設計だった |
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8月5日 |
BLMC取締役会が3台のADO28の試作車を見る。1台はピニンファリーナで2ドア/4ドア仕様があった。もう1台はミケロッティの2ドア車。そしてロイ・ヘインズの2ドア/4ドアの提案で、前者は若い顧客にアピールする事を意図してファストバック・クーペだった。ヘインズ案が基本的に了承された |
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1968 |
8月28日〜9月1日 |
マラソン・デ・ラ・ルート。MGC/GTSのデュオのヨーロッパでの最期のレースであり、アビンドンからの公式のMGの参加の終わりでもある。ゼッケン4(MBL546E、ワイヤ・ホイールを装着)はトニー・フォール/アンドリュウ・ヘッジズ/ジュリアン・ヴィルニューヴのドライヴで、尊敬すべき総合6位で完走。一方クライヴ・ベーカー/ロジャー・エネヴァ/アレック・プールが運転した片割れ(RMO699F、ミニライト・ホイール装着)はオーヴァ・ヒートの後ヘッド・ガスケットが抜けてリタイア |
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1968 |
9月 |
ジョージ・ハリマン卿、退職しブリティッシュ・レイランドを去る。キャリアの大部分は以前のレイランドの経営管理だった |
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1968 |
10月15日 |
アールズコート・モーターショウのプレスデイで、ドナルド・ストークス卿は将来のBLMCの競技参加方針を表明。アビンドンの担当部門は残るが、勝つ可能性のあるイベントへの参加に集中する |
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1968 |
10月16日 |
MG1300Mk.2 2ドアがモーターショウで発表。この時からADO16のMG仕様は2ドアのみとなる |
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1969 |
3月22日 |
セブリング12時間レース。MGワークスとしての最期の参加。「ブリティッシュ・モーター・コーポレーション」の代わりに「ブリティッシュ・レイランド」とフェンダーに表示されていた。この最期の舞台でアビンドンは2台の特製軽量MGC/GTSレーサーを用意した。ゼッケン35(RMO699F)はパディ・ホプカークとアンドリュウ・ヘッジズのヴェテラン・コンビの手でプロトタイプ・カテゴリィで9位(総合15位)、ゼッケン36(MBL546E)はクレイグ・ヒル/ビル・ブラックのドライヴでプロトタイプ15位(総合34位)を獲得した。MGB/GTゼッケン62(LBL591E)はミニライト・ホイールを装着しジェリィ・トゥルーイットとローガン・ブラックバーンの運転でGTカテゴリィ8位/総合28位で完走した。プライベーターの中でジョン・コルゲートとドン・パークス(MGBゼッケン99)は上首尾を上げクラス5位(総合32位。2台目のワークスMGC/GTSよりも上である)。クリス・ウォルドロン/ベン・スコット/ディーン・ドンレィ組(MGBゼッケン64)はクラス6位(総合38位)、ジム・ギャモン/レイ・マーマリィ/ロジャー・ホートン組(MGBゼッケン63)は駆動系のトラブルでリタイアした。MGはこの後プライベート参加として姿を現す |
1969 |
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1969 |
4月 |
大幅に遅れたADO14オースティン・マキシ1500発表。実質的な最期のBMC車 |
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1969 |
4月 |
オースティン・モーリス外装デザイン・スタジオがカウリィから元々ディック・ブルジが使っていたガラス・グリーンハウス・スタジオに移転。内装デザイン・スタジオは10月までカウリィに残る |
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1969 |
6月27日 |
ジョン・ソーンリィ(60歳)、MGを退職。後任は1967年からアシスタント・ジェネラル・マネージャーを勤めていたレス・ランブーン |
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1969 |
7月 |
ライレィ1300生産終了。しかしライレィ4/72は10月まで継続 |
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1969 |
8月4日 |
MGCの生産が9000台余りで停止。最終号車は9月18日にアビンドンを離れた |
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1969 |
9月15日 |
ダットサン240Z、アメリカで発表。2.4リッター直6エンジンと後輪駆動を備える |
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1969 |
9月19日 |
BLMC取締役会、ADO67のスタイリングに承認を与える。この車は1973年にオースティン・アレグロとなる |
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1969 |
10月11日 |
BLMC、MGミジェットとMGBのフェイスリフトを発表。両者ともへこんだ艶消し黒色のグリルを備える。オースティン・ヒーレィ スプライトは輸出されなくなる |
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1969 |
10月15日 |
ミニ・クラブマンと1275GT、アールズコート・モーターショウに展示。オースティン/モーリス1300GT発売。元々はBMCによってクーパー仕様として計画されていたもので、BLMC支配下でGTのバッジが付けられ、派手なホイール・トリムと共に明るいボディ色とされた。結果的にMG1300の地位を奪った |
1969 |
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1969 |
10月 |
オースティン・モーリス内装デザイン・スタジオがカウリィからロングブリッジの通称「エレファント・ハウス」に移転 |
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1969 |
10月24日 |
最期のライレィである4/72が生産される |
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1969 |
11月5日 |
ADO21プロジェクトの開発作業がアビンドンで開始される |
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1970 |
1月 |
ロイ・ヘインズ、BLMCを退職 |
1970 |
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1970 |
3月21日 |
セブリング12時間レース。2台のMGBがプライベート参加で素晴らしい結果を得た。ゼッケン57はジョン・ベルパーチェ/ジム・ギャモン/レイ・マーマリィ組によって総合25位、ベン・スコット/ローウェル・ラニエール/デイヴ・ハウザー(ゼッケン58)組が次の順位を得た。ボブ・キルパトリックはMGBゼッケン60に乗ったが完走できなかった。親会社は最期のセブリングの後でレースから引き上げていたが、ニュージャージィ州レオニアのブリティッシュ・レイランド・モータースが2台のMGを参加させた。ゼッケン56はミジェットでジョン・ウッドナー/ダン・オコーナー組、ゼッケン55はMGBでマール・ブレナン/ローガン・ブラックバーン組がドライヴしたが、どちらも完走できなかった |
1970 |
93 |
82 |
74 |
74 |
68 |
64 |
61 |
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1970 |
6月18日 |
総選挙の結果、テッド・ヒースに率いられた保守党が政権を取る |
1970 |
93 |
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1970 |
6月 |
4輪駆動レンジローヴァがディチューンした3528ccローヴァV8エンジンを搭載して発表 |
1970 |
93 |
82 |
74 |
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1970 |
秋 |
トライアンフのエンジニア、<スペン>キングとマイク・カーヴァが新型TRスポーツカーのユーザー像を固めるためにアメリカを訪れる。結果としてスポーツカーの競合が行われる事になり、参加したのはロングブリッジのオースティン・モーリス・スタイリング、カンレィのトライアンフ、そしてミケロッティである。アビンドンのMGは競合には呼ばれなかった。この時点ではミッドシップ・エンジンのスポーツカーは論点にはならなかった。そのためADO21は恐らく既に死に体だった |
1970 |
93 |
82 |
74 |
74 |
68 |
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61 |
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1970 |
10月14日 |
オースティン・マキシ1750、アールズコート・モーターショウで発表。ロングストローク仕様のE4エンジンを搭載し、これをADO21も使う事を想定していた |
1970 |
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1970 |
10月31日 |
8月の発表を受け、アビンドン・コンペティション部門、通称<コンプス>が15年の歴史を閉じる。スペシャル・チューニング作業は1964年に始まり、わずかなコンペティション予算でアビンドンで維持継続されていた |
1970 |
93 |
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1970 |
11月4日 |
MG ADO21フル・サイズ・クレイモデルがブリティッシュ・レイランドの経営陣に提示される |
1970 |
93 |
82 |
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1970 |
12月29日 |
ADO21のための最後の図面が登録される。プロジェクトのための作業はその後すぐに終了となる |
1970 |
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1971 |
1月 |
オースティン・ヒーレィ スプライト、オースティン・スプライトに名称変更。ヒーレィとの契約が終了したためである |
1971 |
94 |
83 |
75 |
75 |
69 |
65 |
62 |
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1971 |
2月 |
アメリカ政府が自動車安全/排ガス規制を発表。1975年モデルから適用 |
1971 |
94 |
83 |
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1971 |
3月20日 |
セブリング12時間レース。プライベート参加した2台のMGB、ゼッケン52(ベン・スコット/ローウェル・ラニア/デイヴ・ハウザー)とゼッケン51(ジム・ギャモン/ディーン・ドンレィ)はどちらも完走した |
1971 |
94 |
83 |
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75 |
69 |
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1971 |
4月28日 |
モーリス・マリーナ(「頭を後ろに置き忘れた美人」)、1.3リッターと1.8リッター仕様、2ドア/4ドア仕様で発売。マリーナの名は以前デンマークで売られていたADO16で使われた事がある |
1971 |
94 |
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1971 |
5月27日 |
25万台目のMGB(左ハンドル/ブレイズ色のGT)はアビンドン工場で完成。祝賀行事はオースティン・モーリス部門ディレクターのジョージ・ターンブルの訪問を受けた。車両は9月にアメリカで国際的な懸賞の商品とされた |
1971 |
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83 |
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1971 |
5月 |
<Mr.MGB>シド・エネヴァ(65歳)、アビンドンのチーフ・エンジニアの座を退いて退職。後任はロイ・ブロックルハースト |
1971 |
94 |
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1971 |
7月 |
オースティン・モーリス・スタイリング・スタジオの新型BLMC統合スポーツカーのためのMGマグナの提案が承認を受け、即座にトライアンフTR7となる |
1971 |
94 |
83 |
75 |
75 |
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62 |
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1971 |
7月 |
最期の本国でのミニ・クーパー。しかしクーパー自身はイノチェンティによって1974年まで生産される。同時にオースティン・スプライトも終焉を迎える |
1971 |
94 |
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1971 |
8月4日 |
アビンドン、コステロ製車両の査定を受けて、彼等自身のMGB/GT V8プロトタイプを作るよう指示を受ける |
1971 |
94 |
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1971 |
8月31日 |
MG1300Mk.2生産終了。MGのバッジを付けた伝統的なサルーンは1982年5月のMGメトロまで姿を消す。しかし輸出用のCKD生産は1973年まで継続 |
1971 |
94 |
83 |
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1972 |
3月 |
ローヴァとトライアンフが、ジョージ・フォーマー卿の指揮下でローヴァ−トライアンフとして統合。取締役会はローヴァから7名/トライアンフから5名で構成される |
1972 |
95 |
84 |
76 |
76 |
70 |
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63 |
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1972 |
春 |
大部分ドン・ヘイターによってデザインされMGB/GTを基にしたMG SSV1試作安全車両がワシントンDCで行われた路上安全展示会に展示される |
1972 |
95 |
84 |
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76 |
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1972 |
3月23日 |
オースティン/モーリス2200とウーズレィ・シックス発売。ADO17のボディにE6 2227tエンジンを搭載。英国では新型車だが、このエンジンは既にオーストラリアで使われており、ADO21ミドエンジンMGスポーツカーに使う事を検討されていた |
1972 |
95 |
84 |
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76 |
70 |
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63 |
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1972 |
5月4日 |
丸型リア・ホイールアーチのMGミジェット発売 |
1972 |
95 |
84 |
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76 |
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1972 |
8月 |
MGB、1973年モデルとしてフェイスリフト。フロント・グリルはクローム枠タイプに戻るが、メッシュ・グリルとの組み合わせ |
1972 |
95 |
84 |
76 |
76 |
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1972 |
9月 |
Oシリーズ・エンジンがBタイプ・エンジンのオーヴァヘッド・カム仕様として登場 |
1972 |
95 |
84 |
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1972 |
9月 |
ラバー・バンパー仕様MGB、承認を受ける |
1972 |
95 |
84 |
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1972 |
11月6日 |
オーストラリアにおけるMGBの最終生産。セレモニーはおかしな「葬式」「通夜」などの言葉が掲げられ、最も記録されるべきは気前良く六角形のMGが使われた事だろう |
1972 |
95 |
84 |
76 |
76 |
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66 |
63 |
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1972 |
12月12日 |
MGB/GT V8の生産開始。発売は翌年夏 |
1972 |
95 |
84 |
76 |
76 |
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66 |
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1973 |
2月 |
ブリティッシュ・レイランド、TR7が遅れた時の保険としてのみMGBを残す事を計画。Oタイプ・エンジンは1974年4月の搭載を予定 |
1973 |
96 |
85 |
77 |
77 |
71 |
67 |
64 |
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1973 |
2月22日 |
オースティン・マリーナがアメリカでオースティン・アメリカに代わって発表。マリーナ(モーリスは既にアメリカ市場では使われていなかったため、オースティンのバッジが付けられた)には高い希望が掛けられており、徐々にその運命はMGBと結び付けられるようになった。1973年に1万台の販売予想はその後年に25000台に上がったが到達する事はなかった。アメリカでの発売開始の時、ブルティッシュ・ロード・サービスのために働いていたドライバーは打撃を受け、12000人のBLの労働者がレイオフされた。アメリカのディーラーは車を売る事ができたかもしれなかったが、売る車がなかった |
1973 |
96 |
85 |
77 |
77 |
71 |
67 |
64 |
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1973 |
3月24日 |
セブリング12時間レース。1台きりのMGBゼッケン2をディーン・ドンレィ/ベン・スコットがドライヴしたが、完走できず |
1973 |
96 |
85 |
77 |
77 |
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67 |
64 |
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1973 |
5月16日 |
オースティン・アレグロ(「オースティンからの新しいドライヴィング・フォース」)が失望した人々に対して発表される |
1973 |
96 |
85 |
77 |
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1973 |
7月 |
ロイ・ブロックルハースト、BL先行開発部門に異動。ドン・ヘイターがアビンドンのチーフ・エンジニアとなる |
1973 |
96 |
85 |
77 |
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67 |
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1973 |
8月15日 |
新型「時速125マイル(時速201.16キロ)のMGB/GT V8」、一般に発表 |
1973 |
96 |
85 |
77 |
77 |
71 |
67 |
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1973 |
9月 |
「サブリナ」とも呼ばれるオーヴァライダーがMGミジェット、MGB、MGB/GT用として発表。アメリカのみで販売 |
1973 |
96 |
85 |
77 |
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1973 |
10月 |
アラブ−イスラエル戦争勃発。OPEC、オイル輸出価格を4倍に引き上げ、英国に割り当て供給となる |
1973 |
96 |
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1974 |
1月1日 |
燃料節約のため、政府により週3日制が導入され、時速50マイル(時速80.47キロ)の速度制限が行われる |
1974 |
97 |
86 |
78 |
78 |
72 |
68 |
65 |
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1974 |
1月 |
新型ミニとなるADO88の開発作業開始 |
1974 |
97 |
86 |
78 |
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68 |
65 |
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1974 |
2月28日 |
少数者のストライキを受け、総選挙が行われる。しかしどの政党も単独過半数は獲得できず、首相テッド・ヒースは3月4日に民主党が連立政権樹立に失敗したのを受けて辞任。ハロルド・ウィルソンが3月5日に労働党政府を作る |
1974 |
97 |
86 |
78 |
78 |
72 |
68 |
65 |
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1974 |
夏 |
Oシリーズ・エンジンがMGBとマリーナに1977年モデル(1976年秋)から搭載を予定。わずか数週間のうちに、この計画は1978年モデルからに変更される |
1974 |
97 |
86 |
78 |
78 |
72 |
68 |
65 |
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1974 |
7月 |
資金問題下にあるブリティッシュ・レイランド、15000万ポンドの融資の協議を行うために銀行と会議を持つ |
1974 |
97 |
86 |
78 |
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68 |
65 |
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1974 |
10月10日 |
英国総選挙により労働党が少数与党に返り咲き |
1974 |
97 |
86 |
78 |
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72 |
68 |
65 |
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1974 |
10月16日 |
ラバー・バンパー仕様のMGミジェット、MGB、MGB/GT、MGB/GT V8がアールズコート・モーターショウでベールを脱ぐ。ミジェットは1275tAタイプ・エンジンに代わりトライアンフ・スピットファイアの1493tエンジンが装備される |
1974 |
97 |
86 |
78 |
78 |
72 |
68 |
65 |
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1974 |
12月3日 |
トライアンフ・スピットファイア1500、英国で発売。MGミジェット1500と同じエンジンを搭載し、対米仕様のスピットファイアには既に使われていた |
1974 |
97 |
86 |
78 |
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68 |
65 |
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1974 |
12月6日 |
工業大臣であるアンソニー・ウェッジウッド・ベン、政府がBLMCの資本に保証を与えると議会に知らせる |
1974 |
97 |
86 |
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68 |
65 |
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1974 |
12月18日 |
労働党政府の工業アドバイザーであるドン・ライダー卿、BLMCの調査を提案 |
1974 |
97 |
86 |
78 |
78 |
72 |
68 |
65 |
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1975 |
1月1日 |
MGB/GT、アメリカから撤退。一方北米仕様MGBはツインSUキャブレターの代わりにシングル・ストロンバーグが装備された |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1975 |
1月 |
トライアンフTR72ドア・スポーツクーペ発表。基本的には北米のみで販売 |
1975 |
98 |
87 |
79 |
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73 |
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1975 |
2月11日 |
マーガレット・サッチャー、保守党の最初の女性党首になる。テッド・ヒースは2月4日の党首選の最初の投票でサッチャー女史に負けて辞任 |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1975 |
3月26日 |
オースティン/モーリス/ウーズレィ18-22(ADO71)発表 |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1975 |
3月26日 |
ブリティッシュ・レイランドの将来に関するライダー・レポートの発行。勧告には7年で28000万ポンドの政府出費が含まれ、会社は乗用車/トラック・バス/国際/スペシャル・プロダクツの4つの部門に分割 |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1975 |
5月 |
ローヴァのデイヴィッド・ベイチュ、ブリティッシュ・レイランドのデザイン部門長の座に着く |
1975 |
98 |
87 |
79 |
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73 |
69 |
66 |
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1975 |
6月 |
本国MGBにおいてオプション装備だったオーヴァ・ドライヴが標準装備化される |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1975 |
6月27日 |
ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション、ブリティッシュ・レイランドに名称変更。政府が99.8%の株式所有者 |
1975 |
98 |
87 |
79 |
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73 |
69 |
66 |
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1975 |
8月11日 |
英国政府、ブリティッシュ・レイランドを国有化 |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1975 |
8月12日 |
英国のインフレ率が26.9%に達する |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1975 |
9月 |
MGB、プリンセス、マリーナへの試作Oシリーズ・エンジンの耐久試験 |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1975 |
9月13日 |
オースティン・モーリス18-22シリーズがプリンセスに名称変更。ライダーが指摘した再編成の最初の実行である。この事はADO71のバリエーションであるヴァンデン・プラ プリンセスがエンブレムの型まで出来ていながら中止されたように、実行するのに比較的安価である |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1975 |
12月16日 |
英国政府は16250万ポンドの資本注入でクライスラーUKの将来を救う事を公表 |
1975 |
98 |
87 |
79 |
79 |
73 |
69 |
66 |
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1976 |
3月20日 |
セブリング12時間レース。MGBゼッケン55がチャールズ・クラインシュミットとジャック・アンドラスによってドライヴされ、39位。しかし完走できず |
1976 |
99 |
88 |
80 |
80 |
74 |
70 |
67 |
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|
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1976 |
5月19日 |
トラインアンフTR7が本国と欧州大陸に投入される |
1976 |
99 |
88 |
80 |
80 |
74 |
70 |
67 |
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|
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1976 |
6月 |
MGBが欧州大陸から撤退 |
1976 |
99 |
88 |
80 |
80 |
74 |
70 |
67 |
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1976 |
6月 |
ローヴァSD1 3500発売。大幅に改良された元ビュイックの全アルミ製3528ccV8エンジン搭載 |
1976 |
99 |
88 |
80 |
80 |
74 |
70 |
67 |
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1976 |
7月 |
最期の2台のMGB/GT V8がアビンドンで作られる(シリーズの生産終了は6月) |
1976 |
99 |
88 |
80 |
80 |
74 |
70 |
67 |
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1977 |
1月 |
MGBのためのOシリーズの「アメリカ化」再開。1980年の発売を目指す |
1977 |
100 |
89 |
81 |
81 |
75 |
71 |
68 |
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1977 |
2月 |
トライアンフTR7スプリントとTR7V8の試験生産がスピーク工場で行われる。10月まで継続 |
1977 |
100 |
89 |
81 |
81 |
75 |
71 |
68 |
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1977 |
3月19日 |
セブリング12時間レース。チャールズ・クラインシュミット/グイド・レヴェット組がゼッケン52のMGBをドライヴし66位になったが、33周しただけだった |
1977 |
100 |
89 |
81 |
81 |
75 |
71 |
68 |
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1977 |
11月1日 |
マイケル・エドワーズ、社長としてブリティッシュ・レイランドに加わる。同じ日にスピーク・トライアンフ工場の工員が4ヶ月のストライキに突入 |
1977 |
100 |
89 |
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1977 |
12月 |
BL、ミニ後継車のADO88の運命を熟慮。クリニック・テストの結果が思わしくなかった |
1977 |
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1978 |
1月 |
ADO88が若干大きいLC8プロジェクトに置き換えられる |
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1978 |
2月 |
エドワーズ、1978年のブリティッシュ・レイランドの経営計画を公表。12000人の仕事がなくなり、車両はオースティン・モーリスとジャギュア−ローヴァ−トライアンフに分けられ、MGはオースティン・モーリスの一部とされる |
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1978 |
2月15日 |
ブリティッシュ・レイランド、スピーク工場を5月に閉鎖し、TR7の生産をカンレィに移すと発表 |
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1978 |
5月18日 |
セブリング12時間レース。英国人は長い間MGBのレースが終わるだろうと思って来たが、アメリカ人は固執してきた。MGBゼッケン52は恐るべきチャールズ・クラインシュミット/リー・カルペパー/ビル・コッチがドライヴし、160周してクラス14位/総合30位で完走した。 |
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1978 |
4月1日 |
アビンドンのBLモータースポーツ、TR7V8ラリーカーのホモロゲーションを取得 |
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1978 |
4月3日 |
政府がブリティッシュ・レイランドのために45000万ポンドを準備したと公表 |
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1978 |
5月26日 |
トライアンフTR7のスピークでの生産終了。TR7スプリント/リンクス計画中止。TR7V8(TR8になるが)2年遅れる |
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1978 |
7月1日 |
ブリティッシュ・レイランド、BLに名称変更。レイランドの名は商用車に残る。オースティン・モーリスはレイ・ホロックスの下に置かれ、ジャギュア−ローヴァ−トライアンフはウィリアム・プラット・トンプソンの下に置かれた |
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1978 |
7月 |
Oシリーズ・エンジン搭載MGBの開発車両がBL経営陣に提示される。BLはまた27500万ポンドのLC8メトロ計画を承認する |
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1978 |
7月 |
1.7リッター/2リッターのOシリーズ・エンジンが改良版プリンセス2に導入される |
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1978 |
8月8日 |
ジョン・ザッカリィ・デローリアン、彼の会社デローリアン・モーター・カンパニィがノーザンアイランド州ベルファストに開設されると公表。政府の補助金の助力を受けて、スポーツカーを生産するためである。この夢は結局失敗に終わり、会社は1982年2月には管財人の管理化に落ちる。MGのエンシュージャストはDMCに注ぎ込まれた公金でいかにMG工場を生き返らせうるかを計算した |
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1978 |
8月 |
ホンダとの実地の話し合い始まる。匿名性を保持するために仲介人を介した |
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1978 |
9月 |
1.7リッターOシリーズ・エンジンが、改良されたマリーナ2に導入される |
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1978 |
9月 |
MGがジャギュア−ローヴァ−トライアンフの一部となる |
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1978 |
10月1日 |
BLとホンダがサンフランシスコで初めてトップ級の会談を行う |
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1978 |
10月 |
トライアンフTR7の生産がカウリィで再開される。スピーク工場閉鎖から5ヶ月の空白期間を置いてである。アメリカの販売会社は配車の不足に不満で、彼等の商売に悪い影響を与えた |
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1978 |
12月 |
BL工員の自給96000ポンドに対する秘密投票。彼等は2:1でBLの支払と生産性の扱いに賛成した |
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1979 |
4月1日 |
ピーター・ミッチェル、BLヘリテイジ(後のブリティッシュ・モーター・ヘリテイジ)に入社 |
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1979 |
4月 |
北米仕様MGB限定車がニューヨーク・インターナショナル・モーターショウで発表。5000台の限定で、MGB LEはシルバーのサイド・ストライプ付ブラック・ボディで、オーヴァ・ドライヴがオプションで、特製の3本スポーク・ステアリング・ホイールとアルミ・ホイールと185/70SRタイヤ、ステンレス・スチール製ラゲージ・ラックと「ココ」マットが装備された。価格は8550ドルで、標準のMGBよりも600ドル以上高価である |
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1979 |
5月3日 |
マーガレット・サッチャー率いる保守党が総選挙に勝利。ポンドがドルに対して暴騰する |
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1979 |
5月15日 |
BLとホンダの間の合意事項のメモが作成される。ホンダ・バラード(ホンダ・シビックと関連している)を基にした新型トライアンフがカンレィで作られる計画が公表される。計画の実施は1981年10月とされ、メトロ(1980年)とマエストロ(1983年)の導入の中間にあたる |
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1979 |
5月19日 |
「オートカー」上の論説でJRT(ジャギュア−ローヴァ−トライアンフ)の広報担当は「MG?我々はそれをドブに棄てようとしている。次はジャギュアだ。JRTにとって最も重要な名前だから。」という話を引用した。MGBについても言及されており、「次の5年のための生産計画の考慮中の一部だ」とされ、典型的なTR7とMGBの顧客は異なっているという認識を示した |
1979 |
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1979 |
6月 |
銀相場の劇的な上昇がBLのビジネスに影響を及ぼす(特に対米輸出)。BLは「エドワーズ・プラン」として知られるCORE(資産再配置)戦略をフォーマット化する。企業の最大効率のためであり、LC8メトロとLC10マエストロの間のギャップの問題を指摘するためである |
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1979 |
6月 |
マイケル・エドワーズ、保守党からナイト爵位を受ける。先の労働党政権へは同様の叙勲を2度拒否していた |
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1979 |
7月9日 |
BL、工業大臣キース・ジョセフ卿と会合を持つ。彼等の提案とLC10プログラムのための融資を競技するためである |
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1979 |
7月 |
トライアンフTR7コンバーチブル発表。TR7クーペより5年遅れである。始めはアメリカ限定販売だった |
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1979 |
7月〜 10月 |
国際技術論争 |
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1979 |
8月 |
ミジェットの生産が段階的に減らされる。最終は日本向けの500台。ヴァンデン・プラ1500の組み立てがアビンドンに移される |
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1979 |
9月1日〜9日 |
MGがアビンドンで生産されて50周年を祝う特別の1週間の祝賀会が行われる |
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1979 |
9月10日 |
パーク・ロイヤルのAEC工場の閉鎖の発表に続き、「MGが次の犠牲者である」という報道での噂の中心にあって、カンレィでの自動車生産を閉じるためアビンドンでのMGスポーツカーの生産を終えると公表(BL/ホンダ連携の賜物は代わりにカウリィで生産され、一方TR7の生産はソリハルのローヴァ工場に移される)。総計での余剰人員は25000人ほど[1] |
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1979 |
9月13日 |
ジョン・ソーンリィ(70歳)、アメリカのジャギュア−ローヴァ−トライアンフ−MGの全ディーラー445社に、アビンドンでのMGBの生産を継続するようBLに迫るよう手紙を書く |
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1979 |
9月26日 |
BL、MGBを1台売るごとに900ポンドの損失が出ていると発表。彼等はこの数字に基づく詳細を示す事を拒否。オースティン・アレグロ3発表 |
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1979 |
9月30日 |
MGクラブ、ロンドン中心部でアビンドン閉鎖に抵抗するデモを行う |
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1979 |
10月14日 |
アストン・マーティン・ラゴンダのアラン・カーティス、アメリカのピーター・スプラーグに電話してMGの買収を提案 |
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1979 |
10月16日 |
カーティスとその他のこの件に興味を持っている集団がロンドンのグロスヴナル・ホテルでMGブランドとMGBを買い取る事についての会合を持つ |
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1979 |
10月17日 |
組合指導部、BL労働者にエドワーズ・プランを受け入れるよう勧告。全従業員は投票を行う事になる |
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1979 |
10月18日 |
アストン・マーティン・ラゴンダに率いられた企業団がMGの名と工場を買い取る事を意図していると公表 |
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1979 |
11月1日 |
BL全従業員、エドワーズ・プランを受け入れる。80%が投票し、87.2%が受け入れに同意した |
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1979 |
11月6日 |
カリフォルニアのMGディ−ラーのグループ(背景に416の強力なアメリカのJRT販売協会を持つ)がBLに対し、もしMGBの生産が終了されたら1億ポンドの訴訟を起こすと脅す。彼等の販売のほとんど半分を占めているためである。主としてこれらのディーラーを宥めるため、BLはMGBを1981年まで残すと発表、またMGマークを残したいと思っていると発表した |
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1979 |
12月10日 |
BL、アビンドン工場に対するプランを公表 |
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1979 |
12月11日 |
デイリィ・メイル紙が「レイランドは最終的にMGをAML企業団に売却するかも知れない。価格が適正であれば」と報道。ハロルド・マスグローヴは「アストン・マーティンとの協議は継続している」という言葉を引用した |
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1979 |
12月12日 |
最期のMGミジェットがアビンドンの生産ラインを離れる。黒の本国仕様で、ブリティッシュ・モーター・テリテイジ・コレクションに送られた。総生産台数は224817台。同じ日、AML企業団は「3週間以内に」という注文をした事を明らかにした |
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1979 |
12月 |
BL、トライアンフTR7の低価格MGの開発計画としてMGボクサー計画を手軽に弄び、アメリカのJRTディーラーへの懐柔を図る。この話はマスコミに意図的に漏洩されるが、この案は1980年の早いうちに取り下げられ、MGはJRTからアストン・マーティンに戻る |
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1979 |
12月20日 |
BL、英国政府が彼等の復活計画に同意したと公表。これには2億500万ポンドの更なる現金注入を含む |
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1979 |
12月27日 |
BLとホンダ、提携車種の生産についての合意書にサイン。部品と治具の購入を含む |
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1980 |
1月 |
50万台目のMGB、黒のトゥアラーがアビンドンで製造。記念式典にはシド・エネヴァ(74歳)が同席 |
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1980 |
1月12日 |
アストン・マーティンが「3500万ポンドが来週MGを救うために支払われる」と発表。これには工場の装備を含み、年26000台の車両のためのOシリーズ・エンジンを獲得する交渉の継続も含む |
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1980 |
1月14日 |
ジャギュア−ローヴァ−トライアンフ、「MGBは1980年末まで生産され、1981年始めまで購入可能。MGの名は残され、MGBがアビンドンで生産を終了した後に後継車を作る計画もある」と記者発表 |
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1980 |
1月 |
トライアンフTR8発売(アメリカのみ)。生産前にTR8クーペが作られたが、全ての車両はコンバーチブルだった |
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3月7日 |
BLはアストン・マーチン企業団に対して、MGの名称使用権を許可し、アビンドン工場の全体的な設備使用許可を与える努力をする |
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3月 |
トライアンフTR7コンバーチブルが本国と欧州で販売に移される |
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1980 |
3月31日 |
アストン・マーティン企業団がBL取締役会と会い、独占的に全世界でのMGの名称使用権を得て、アビンドン工場を獲得する事についての3000万ポンドの金額を同意。 |
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1980 |
4月 |
TR7の生産がカンレィでの生産と重複してソリハルのローヴァSD1工場で始まる。 |
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1980 |
7月1日 |
アストン・マーティン、3000万ポンドの約半分が企業団の援助者によって引き上げられたと公表。残された希望は日本人とアラブ人の後援者に1200万ポンドを負担してくれるよう説得する事だけとなった。同じ日、アストン・マーティンは100人の労働者を解雇すると発表。全従業員の四分の一に相当する |
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1980 |
7月2日 |
BL、アビンドン工場放棄に対する彼等の緊張を発表。「過去24時間の間、我々は(企業団と)会合を持っていた。我々は必要な資金は準備できないと感じている」とBLインターナショナルのトップであるウィリアム・プラット・トンプソンは語った |
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1980 |
7月4日 |
アラン・カーティス(AML)、2つの日本の企業団との間の、買い取りのために必要な資金を得る最後の足掻きの協議に参加。 |
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1980 |
7月9日 |
BL、MGの工場を最終的に10月末に閉鎖すると公表 |
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1980 |
7月 |
モーリス・イタル発売。この大幅にフェイスリフトを受けたモーリス・マリーナはLM11(モンテゴ)が1984年に出るまでのギャップを埋める事を意図していた。7月4日のマーロゥでの会合が決裂したのを受けて、銀相場の高騰の影響と戦う事を意図してBLの再構築が決定された。自動車部門は以下のように再編成を受けた:JRTは解体され、ジャギュアは再び単独となる。量販車(オースティン・モーリス)はローヴァとトライアンフを吸収し、ライト・ミディアム・カー(LMC)と呼ばれる新たな部門を構成する。マーケティングと製造企画は別組織「カーズ・コマーシャル」となる |
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8月 |
トライアンフTR7、カンレィでの生産終了。トライアンフ・スピットファイア、生産終了。LM10、1983年の発売についてBL取締役会の承認を得る |
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10月2日 |
最期の量産仕様MGBボディシェルがスウィンドン郊外のストラットン・セントマーガレットのプレスド・スティール社で生産。 |
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10月8日 |
オースティン・マエストロ、発表。3ドア・ハッチバックの「偉大な英国車」は1リッター/1.3リッターのAプラス・エンジンを搭載していた |
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10月17日 |
バーミンガムのNECでモーターショウ80でオースティン・メトロの公式デビュー |
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1980 |
10月23日 |
モーターショウの終わりに向けて、メディアの注意が新型メトロに集中している一方で、最期のMGBがアビンドンの生産ラインを降りた |
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1980 |
10月24日 |
アビンドンのMG工場、50年の歴史を閉じる |
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