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MG CHRONOLOGY |
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※本稿は、主として「MG:THE UNTOLD STORY」を基にして、「MG by McCOMB」などの資料で補完したものである |
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■:人事 ■:経営 ■:製品 ■:競技 □:その他 ※青文字は訳者 |
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YEAR |
DATE |
EVENTS |
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ウィリアム・モーリス |
セシル・キンバー |
H.N.チャールズ |
レオナード・ロード |
セック・カズン |
シドニィ・エネヴァ |
ジョン・ソーンリィ |
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1931 |
1月 |
モンテカルロ・ラリー。フランシス卿とサミュエルソン夫人がMタイプ・スポーツマンズ・クーペで参戦 |
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1931 |
2月6日 |
マルコム・キャンベルがブルーバードによる地上絶対速度記録挑戦の合間にスーパー・チャージャー付オースティン・シングル・シーター車でアメリカのフロリダ州デイトナ・ビーチにおいて、時速94.061マイル(時速151.37キロ)を達成。 |
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1931 |
2月9日 |
ジョージ・イーストンがEX120で、5キロコースでの時速97.07マイル(時速156.21キロ)の記録を含むオースティンの全ての記録を破る。 |
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1931 |
2月16日 |
ジョージ・イーストン大尉がEX120で再びモンレリィで走り、5キロコースで時速103.13マイル(時速165.97キロ)、5マイルコースで時速102.76マイル(時速165.37キロ)、そして10マイルコースで時速101.87マイル(時速163.94キロ)を記録。前日にセシル・カズンはコース脇の下水の中のオイル缶からEX120のための粗雑なノーズ・カウルを作った。キャブレター凍結問題への対応のためである |
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1931 |
3月2日 |
ヘンリィ・ストーン、前年10月の面接を受けてアビンドンで働き始める |
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1931 |
3月3日 |
アビンドンでの昼食の際、セシル・キンバー(43歳)は750ccモンレリィ・ミジェットの制作構想を公表する。モックアップはEX120の横に展示された |
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1931 |
3月13日 |
MGはEX120によるブルックランズでの時速100マイル(時速160.93キロ)記録獲得に失敗。しかし時速96.93マイル(時速155.99キロ)を記録し、オースティン750を打ち破った |
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1931 |
3月16日 |
MGは750ccモンレリィ仕様ミジェットをミジェットMk.2(Cタイプ・ミジェット)として公表。エンジン・ストロークは標準の850ccエンジンから10ミリ短縮され、、746ccの排気量を得ていた。2つの仕様があり、スーパー・チャージャー付が345ポンド、なしが295ポンドだった |
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1931 |
5月8日〜9日 |
ブルックランズ・ダヴル・トゥエルヴ・レース。14台のモンレリィCタイプが参戦し、13台が出走、5台が1〜5位を独占した。ワークス・カーは3台ずつの4チーム(マーチ伯爵/セシル・ランドール/<ゴールディ>ガードナー/チェトウィンド夫人閣下)で参戦し、マーチ伯爵/スタニランド組が優勝、ギブソン/フェール組が2位。ヒュー<ハミィ>ハミルトン(コ・ドライヴァなし)が3位、パーカー/コックス組が4位、そしてノーマン・ブラック/フィエンズ組が5位である |
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6月 |
ル・マン24時間レース。 |
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1931 |
8月22日 |
アルスター・ツーリスト・トロフィ・レース。 |
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1931 |
9月4日 |
MG Fタイプ・マグナ12/70シックス1271t6気筒エンジンを搭載して発表。同時に低いシャーシィで緊急用4座のミジェット(Dタイプ)も公表 |
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1931 |
9月25日 |
2回目の挑戦でEX120は火災に会い、甚大な被害を受ける。この過程でアイストン大尉は大変幸運にも脱出に成功、車から飛び出し、追い越してきたフランス人ドライヴァによって地元病院に運ばれた。後にEX120の残った部分はアビンドンで分解された[1] |
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1931 |
9月30日 |
アーネスト・エルドリッジがEX127で世界記録達成。モンレリィにおいて、国際クラスH5キロ(3.11マイル)で時速110.3マイル(時速117.51キロ)を出した |
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1931 |
10月 |
ブルックランズ500マイル(804.65キロ)・ハンディキャップ・レース。エディ・ホールが単座型Cタイプで総合3位(クラス優勝)を遂げ、チーム賞も獲得した |
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1931 |
10月15日 |
オリンピア・モーターショウにおいて全金属製ボディの改良型MG Mタイプ・ミジェット発表。価格は185ポンド(旧型ファブリック・ボディは165ポンドで販売継続) |
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1931 |
10月17日 |
アーネスト・エルドリッジ、EX127で5キロ(3.12マイル)速度記録を時速110マイル(時速177.02キロ)で獲得 |
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1931 |
11月3日 |
ジョン・ソーンリィ(22歳)、アビンドンの整備部門で働き始める。セシル・キンバー(43歳)は彼にMGカー・クラブを運営し、整備部門を助力するよう命じた。しかしジョージ・プロパートは別の考えを持っており、真反対を命じた |
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1931 |
12月22日 |
凍結しそうな路面のモンレリィで、ジョージ・アイストン大尉がEX127で4つの記録を獲得。時速114.77マイル(時速184.70キロ)を出した。彼の個人的安全のため、彼は特製の石綿製オーヴァオールを着た。前年9月のEX120での彼の経験の教訓である |
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1932 |
2月8日 |
EX127、時速120マイル(時速193.12キロ)達成を目指してペンティウィン砂漠(ウェールズ)に姿を現す。MG自身の幾つかの計測器トラブルの後、アイストンは時速122マイル(時速196.33キロ)を獲得。しかし公式なRACの計測器インク切れを起こしたらしく、記録は公式には認められなかった |
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1932 |
6月7日 |
モンレリィ・ミジェットMk.3発表。746tエンジンのままだが新型シリンダー・ヘッドを装着。スーパーチャージャーなし仕様は490ポンド、強化型スーパーチャージャー付は575ポンド、。Mタイプ・ミジェットは最終的に生産終了となった |
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1932 |
6月18日〜19日 |
ル・マン24時間レース。 |
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1932 |
8月5日 |
MG J2ミジェットがオートカー誌で発表。価格は199ポンド10シリング(199.5ポンド) |
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1932 |
9月 |
アルスター・ツーリスト・トロフィ・レース。 |
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1932 |
10月13日 |
MGマグネットがオリンピア・モーターショウの24番スタンドで姿を現す。1086t6気筒エンジンを搭載し、K1/K2/K3のバリエーション。2トーンの青いミジェット・サロネットと2トーンの緑のF2(後にF3として知られる)マグナ4シーターも展示 |
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1932 |
10月26日 |
最初のプロトライプのレーシング仕様Kシリーズ(K3プロトタイプ、シャーシィ・ナンバーK3751)がアビンドンで作られる。2台目は1933年1月4日に製造 |
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1932 |
12月13日 |
アイストンがEX127と共にモンレリィに戻る。冷たく濡れたコースにおいて、フライング・マイルとフライング・キロメートルで時速120.56マイル(時速194.02キロ)の平均速度を獲得。それから翌週のコースの上で、彼のメカニックであるバート・デンリィと自動車ジャーナリストであるトミィ・ウィズダムの助力で、アイストンは残る全ての750cc記録を破る事に成功。EX127とJ3ミジェット(シャーシィ・ナンバーJ3756。登録番号JB1047)でである |
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1933 |
1月4日 |
後にK3マグネットとなる2台のプロトタイプの二次試作が形作られ始める。直後の1月19日に、4月のミッレ・ミリアに備えたイタリアへの偵察旅行として送られる |
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1月 |
モンテカルロ・ラリー。 |
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1933 |
3月 |
MG Lタイプ・マグナ発売。同時にJ4ミジェット限定生産(9台のみが作られる)。スーパーチャージャーを持たないJ4であるJ5もリストには載っていたが生産はされなかった |
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1933 |
4月 |
ウーズレィの技術者であったレオナード・ロード(36歳)、モーリス・モータースの常務取締役(Managing Director)になる |
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1933 |
8月8日〜9日 |
イタリア、ブレシアでミッレ・ミリア公道レース。3台のK3マグネットがアール・ホゥによってエントリィされ、ヒュー・マッコーネルが監督。ジョージ・アイストン/ジョバンニ<ジョニィ>ルラーニ伯爵がJB1475(ゼッケン39、シャーシィ・ナンバーK3003)をドライヴし、クラス優勝した。JB1472(ゼッケン42、シャーシィ・ナンバーK3001)のアール・ホゥとヒュー・ハミルトンはクラス2位になった。一方ヘンリィ<ティム>バーキン卿/バーナード・ルービン組のJB1474(ゼッケン41、シャーシィ・ナンバーK3002)は完走できなかったが、コースのブレシア公道区間の新記録を作った[2] |
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1933 |
5月 |
マン島TTサーキットでRACマニン・ベッグ・レース。 |
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1933 |
5月 |
「MGマガジン」創刊号発売。2.5ペンス |
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6月 |
ル・マン24時間レース。 |
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1933 |
7月 |
最後のMG18/80Mk.2がアビンドンで生産される |
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1933 |
7月 |
イタリアでコッパ・アセルボ・ユニオール・レース。ホイットニィ・ストレートが彼のK3マグネットで地元のマゼラーティを破る |
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1933 |
9月2日 |
アルスター・ツーリスト・トロフィ・レース。 |
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1933 |
9月5日 |
モーター誌、マグネットが排気量の1087tから1286tへの拡大を含む多くの技術的変更を受けて改良され、J2はフェンダーの形状変更を受け、マグナ・シャーシィ上のトゥアラーとサロネットはラインナップから落とされ2シーターのみが残されると報道。しかし1286tという排気量は誤りで、アビンドンの誰かが慎重にもストロークを83ミリ(3.27インチ)へ増やし、エンシュージャストは既にFタイプ・マグナに見られる1271tエンジンとは全く異なるものになるという希望を信じた。オートカー誌も多くを同じ内容とした記事を9月1日に掲載した |
1933 |
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1933 |
9月14日 |
ジョージ・アイストンがEX127で3つのクラスH速度記録を獲得。50キロ(31.07マイル)/50マイル(80.47キロ)/100キロ(62.14マイル)で時速106.7マイル(時速171.71キロ)を記録した |
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1933 |
9月16日 |
エディ・ホールが彼の単座型K3(シャーシィ・ナンバーK3006)でブルックランズ500マイル(804.65キロ)ハンディキャップ・レースで優勝 |
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1933 |
10月7日〜8日 |
ジョージ・アイストン/バート・デンリィ/トミー・ウィズダム/R.ヤロップから成るチームがL2マグナで24時間平均時速80.5マイル(時速129.55キロ)を出す。キンバーは失望した |
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1933 |
10月19日 |
アイストン大尉のメカニックであるバート・デンリィがモンレリィでEX127を使って自足128.62マイル(時速206.99キロ)を記録 |
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1933 |
11月20日 |
バート・デンリィがEX127を駆ってモンレリィで時速114.8マイル(時速284.75キロ)を出して4つのクラスH記録を獲得 |
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1934 |
1月 |
マジック・マグネットがアビンドンでアイストン大尉のためにEX135として作られる。2つのボディがあり、速度記録挑戦のための単座と公道レースのための、より通常型のボディである |
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1934 |
3月2日 |
MG Pタイプ・ミジェット発売。後にPAとして知られるようになる |
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1934 |
3月 |
セシル・キンバー(46歳)の特製コルシカ・ボディのK1完成。それは1936年に販売され、新しいオーナーは1937年にコルシカによってボディ・ワークを改良した |
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1934 |
3月30日 |
MG Nタイプ・マグネット発表。1271t6気筒エンジン搭載 |
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1934 |
4月 |
イタリア・ブレシアでミッレ・ミリア。MGチームはアール・ホゥによってエントリィされ、監督はヒュー・マコーネルで、3台のK3マグネット(ルーツ式スーパーチャージャー付)と共に2度目の勝利を得るために戻ってきた。ドライヴァはホゥ/トーマス組、エディ/ジョン・ホール組、ペン・ヒューズ/ジョニィ・ルラーニ組だった。しかし彼等は1933年ほど上手く行かなかった。マゼラーティはピエロ・タルフィのために新車を準備し、MGの脅威となった。ホゥはクラッシュし、ホールはリタイア、しかしルラーニとペン・ヒューズはクラス2位になった |
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1934 |
5月30日 |
2回目のRACマニン・ベッグ・レース |
1934 |
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1934 |
6月 |
ル・マン24時間レース。 |
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1934 |
7月23日 |
ロニー・ホートン、ブルックランズで彼のオフセット単座型K3(シャーシィ・ナンバーK3007)で2つのクラスG記録を獲得。この車は後にEX135になる |
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1934 |
8月10日 |
MG Qタイプ・レーサー、市販公表。746tエンジンを搭載し、時速120マイル(時速193.12キロ) |
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1934 |
9月1日 |
ダンドロッドでのRAC TTレースは新型NEマグネットのレース・デビューとなる。 |
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1934 |
9月19日 |
KNマグネット、ピラーレス・サルーンとして399ポンドで発売(通常型Nタイプ・マグネットも継続。KNは12インチ/30.48センチ長いシャーシィを持つ) |
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1934 |
10月14日 |
モデナ・サーキットでラファエロ<レーロ>チェッキーニが優勝。マゼラーティのわずか数秒差である。勝利をもってシリーズ・チャンピオンとなり、チェッキーニの特製ボディのK3はイタリア1100tチャンピオンシップで初のイタリア以外のチャンピオンカーとなった |
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1934 |
10月27日〜28日 |
ジョージ・イーストン大尉が、MGによって<マジック・マグネット>と名付けられたが世間一般にはそのクリームと茶のストライプのカラーリングから「ハッカ・キャンデー」と言う方が通りが良いEX135で、モンレリィにおいて12のクラスGレコードを樹立。速度は時速128.7マイル(時速326.90キロ)だった |
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1935 |
2月15日 |
オートカー誌が、Nタイプをベースとしてミドルエセックス州フェルタムのE.ベルテリ会社で架装した特注ボディを付けて、ワージングのクレスタ・モーター・カンパニィからクレスタ・マグネットとして発売されると報道 |
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1935 |
3月 |
MGマガジン誌上で、セシル・キンバー(47歳)が2台の発売予定のシングル・シーター・レーシング・スペシャル「MG単座ミジェット750cc」(予定価格は約600ポンド)と「MG単座マグネット」(予定価格は約900ポンド)の概略を事前予告。前者は翌月にRタイプ・ミジェットとして登場するが、後者(6気筒Sタイプ)は発売されなかった。MGマガジンでの記事が掲載されたのと同じ頃、キンバーは自動車報道機関にレース規定の変更についての懇願に対する助力をもらえるよう手紙を書いている。それは彼の車の利益となることだったが、1935年7月(訳注:MGカー・カンパニィのモーリス・モータースへの売却と、それに続くレース・シーンからの撤退を指すと思われる)出来事がこれ等の努力を無に帰した |
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1935 |
4月 |
スポーツ・カー誌がMGマガジンに置き換わる |
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1935 |
4月25日 |
全輪独立懸架のRタイプ・ミジェット発表。価格は750ポンド |
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1935 |
5月6日 |
6台製造されたRタイプのうち4台が、ブルックランズのジュニア・カー・クラブ国際トロフィ・レースに参加。ビル・エヴェリットとマルコム・キャンベルのRA0260はクラス優勝/総合6位となり、ドリーン・エヴァンスの青いヴェルビュー・ガレージ車(ゼッケン38、RA0255)はクラス2位/総合7位を得た。ノーマン・ブラックのRA0253と<ウォリィ>ハンドレィのRA0252と同じく完走できなかった。同じレースで3台のK3マグネット、ホールのK3006/マンビィとコールグローヴのK3004/レッツのK3023は尊敬すべき事にそれぞれ3位/8位/11位を得た |
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1935 |
5月 |
第3回目RACマニン・ベッグ・レースに4台のMG Rタイプが参加。ジョージ・イーストン(RA0251)/<ウォリィ>ハンドレィ(RA0252)/ノーマン・ブラック(RA0253)/ボビィ・ベアード(RA0254)だったが、どれも完走できず |
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1935 |
5月19日 |
ボビィ・コーラウシュがEX127で、ハンガリーのグイオンで時速130.9マイル(時速210.66キロ)の新記録樹立 |
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1935 |
6月 |
ル・マン24時間レース。 |
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1935 |
6月27日 |
ミュリナー社のジャイムズ・ウィグネイルはセシル・キンバー(47歳)の求めに応じて何枚かの大型MGサルーンの提案図面を作成する。この中の一つがモーリス・モータース買収後の10月に発売されるSAの基礎となった |
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1935 |
7月1日 |
ウィリアム・モーリス(58歳)がMGカー・カンパニィとウーズレィ・モータース(1927年)をモーリス・モータースに売却する手続きを始める。セシル・キンバー(47歳)はモーリス・モータースの取締役となるが、MGの部門長(General Manager)ではあるものの常務取締役(Managing Director)の座はレオナード・ロード(39歳)が継ぐ。アビンドンの多くの設計者がカウリィに移動となったが、シド・エネヴァ(29歳)は実験開発部門長として残った |
1935 |
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1935 |
7月5日 |
7月1日の発表に対する最初の報道機関の反応として、オートカー誌はMGがレースの場から姿を消す事に対する衝撃を表明した |
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1935 |
7月10日 |
モーリス・インダストリィ社からモーリス・モータース社へ、公式にMGの所有者が移転する |
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1935 |
9月21日 |
ロンドンの商談会でSSジャギュア2.6リッター・サルーンが発表される。新型MG2リッター(SA)の直前だった |
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1935 |
10月17日 |
MG2リッター(SA)サルーン(オートカー誌で10月4日に発表)がオリンピア・モーター・ショウに展示。これはホイールベース10フィート3インチ(3.12メートル)の大柄な車だった。PBミジェットがPAミジェットに置き換わり、排気量拡大(939t)したエンジンと、メッシュの部分が縦スラットに置き換わったラジエター・グリルを装備していた |
1935 |
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1936 |
4月24日 |
MG SAティックフォード4シーター・ドロップヘッド・クーペの広告がオートカー誌に掲載される。サロモン社製ボディで価格は398ポンド(標準のSAは375ポンド) |
1936 |
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1936 |
6月13日〜14日 |
ル・マン24時間レースの日だったが、6月23日に変更を計画されたものの結局レースは中止された。MGはジョージ・イーストンとエディ・ハーツバーガー組が参加する予定だった |
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1936 |
6月19日 |
MG Tタイプ・ミジェット(TA)がPBに置き換わって発売。エンジンは1292tのMPJGユニット。価格は222ポンド |
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1936 |
7月 |
チャールズウォース社製ボディのSA2リッター・トゥアラー発売。4座4ドアで、低い幌を備えていた。腰の高さで前から後ろ前まで通ったボディ・ラインをしていた。価格は375ポンド |
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1936 |
8月27日 |
レオナード・ロード(40歳)、モーリス・モータースの常務取締役の座を降り、後任にはオリヴァ・ボーデンが就く。ロードはモーリス(59歳)に対して婉曲に彼によって得られた利益の配分を求めたが、モーリスは彼の要求を呑まなかった。直後に彼はマイルズ・トーマスを訪れ、彼は自伝「アウト・オン・ア・ウィング」でロードは「トミィ、僕は血まみれのレンガでカウリィでの仕事をコテンパンにするつもりだよ」と言ったという。いったい誰が「血まみれ」というこの上なく強い悪口でロードが示唆したものを知っているというのだろう |
1936 |
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1936 |
8月 |
ブルックランズ・バンクのホリディ・ミーティングで<ゴールディ>ガードナー少将が新たなクラスGのサーキット・レコード時速124.40マイル(時速200.20キロ)を元ロニィ・ホートンのK3ベースのオフセット・シングル・シーターで樹立。翌月、ガードナーはイーストン大尉の持つ幾つもの記録への挑戦を開始。キンバー(48歳)はナッフィールド卿から再び記録挑戦の許可を求めるのに十分な印象を受けた。 |
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1936 |
10月2日 |
MG VA1.5リッターがサルーンとオープン4シーターの両仕様で発表。キンバー(48歳)が唱えた広告スローガンは「空間(SPACE)のため、優美(GRACE)のため、速度(PACE)のため」。多くのジャギュアのエンシュージャストは、このスローガンはウィリアム・ライオンズ卿が戦後作ったものだと信じた。サルーンは325ポンド、トゥアラーは280ポンドでフォールディング・ヘッド・フォアサム(ティックフォード)は335ポンドだった |
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1936 |
10月10日 |
ボビィ・コーラウシュがEX127でフランクフルト−ダルムシュタット間のアウトバーンのフライング・マイルで、時速140.6マイル(時速226.27キロ)の記録樹立 |
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1937 |
2月 |
イーストン大尉のマジック・ミジェットがベルビュー・ガレージで売りに出される(価格425ポンド)。ボディと「多くのスペア」を含む。ガードナーにより購入され、レイド・レイルトンのデザインになるまったく新しく軽量ジュラルミン製のボディを架装した |
1937 |
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1937 |
6月 |
ル・マン24時間レース。 |
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1937 |
10月 |
チャールズウォース社製ボディのSA2リッター・トゥアラーの改良型発表。Frドアにはカット・アウェイ(訳注:外側の肘を逃がすためのドアの切り欠き)が付けられ、新しいVAトゥアラーのドアに似たようになった。チャールズウォースは399ポンドで、一方ティックフォードは415ポンドだった |
1937 |
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1937 |
10月25日 |
<ゴールディ>ガードナー少将が最近入手したオフセット・シングル・シーターK3を使って4つのクラスG国際記録をフランクフルトで樹立。速度は時速148.8マイル(時速239.46キロ)に達した |
1937 |
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1938 |
2月 |
ライレィ・モータースの経営を引き継ぐ管財人が指名される |
1938 |
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1938 |
6月 |
ル・マン24時間レース。 |
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1938 |
夏 |
MG・WA、2.6リッター・エンジンを搭載して発表 |
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1938 |
8月19日 |
MG・TAティックフォード発表。ニューポート・パグネルのサルモン&サン社のコーチワーク |
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1938 |
9月8日 |
ライレィ(コヴェントリィ)社がウィリアム・モーリス(61歳)によって登記され、すぐにモーリス・モータースに転売される |
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1938 |
11月9日 |
<ゴールディ>ガードナーがフランクフルトでEX135を使って時速186.567マイル(時速300.24キロ)を出し、フライング・マイルで時速187.616マイル(時速301.93キロ)、フライング・キロメートルで時速186.567マイル(時速300.24キロ)で二つのクラスG記録を破った |
1938 |
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1939 |
5月 |
MG・TBミジェットがモーリスM10ベースの1250tXPAGエンジンを搭載してTAに置き換わる。 |
1939 |
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1939 |
5月31日 |
ドイツ・デッサウにおいて、<ゴールディ>ガードナーが運転するEX135が時速203.5マイル(時速327.49キロ)を出し、3つのクラスG記録を樹立 |
1939 |
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1939 |
6月2日 |
デッサウにおいて、EX135が2つのクラスF記録を樹立。速度は時速204.2マイル(時速328.62キロ)。これが戦前最後の記録挑戦である |
1939 |
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1939 |
6月 |
ル・マン24時間レース。 |
1939 |
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1939 |
9月3日 |
英国とフランスがドイツに対して宣戦布告 |
1939 |
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1940 |
3月 |
オリヴァ・ボーデン氏死去。副社長(Vice
Chairman)としての彼の地位はマイルズ・トーマスが継ぐ。元ジャーナリストで、ナッフィールド・プレス社の創立以来モーリスのために働いており、1927年5月以来モーリス・モータースのディレクターとなっていた |
1940 |
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1940 |
5月 |
モーリス・モータース社がナッフィールド・オーガニゼーションに名称変更 |
1940 |
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1941 |
11月 |
セシル・キンバー(53歳)、マイルズ・トーマスによってMGを解雇される |
1941 |
64 |
53 |
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1944 |
10月2日 |
モーリス・ガレージ社がチャールズ・ラウォース&サン社を買収。この会社は初期のモーリス・ガレージのスペシャルのコーチワークを請け負っていた |
1944 |
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1945 |
2月4日 |
セシル・キンバー、線路の変形による事故で死亡。ロンドンのキングズ・クロス駅のすぐ北での出来事だった。享年57歳 |
1945 |
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1945 |
4月 |
H.A.ライダーの指揮下、カウリィでMG・TCミジェットの生産準備が始まる。プロトタイプは戦前のTBデモ車を元にしている |
1945 |
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1945 |
5月7日 |
ドイツ軍が連合軍に降伏。翌日がVE(Victory in Europe)デイとなる |
1945 |
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1945 |
7月26日 |
英国総選挙でクレメント・アトリィ党首の労働党に政権が戻る |
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1945 |
9月 |
1939年に作られたモーリス・プレス部門と共同で、ナッフィールド・メタル・プロダクツ社創立。新しい会社はモーリス・マイナーとライレィ・パスファインダーのボディ生産に等しく責任を持つ |
1945 |
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1945 |
9月17日 |
最初の量産MG・TC(bO252、エンジンbP163)完成。0251号車はプロトタイプ |
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10月 |
MG・TC発表 |
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1945 |
10月 |
大臣ヒュー・ダルトンの最初の予算の一部として、古いRAC馬力課税制が廃止された。これは1906年に施行され、結果としてMGを含むロング・ストローク/スモール・ボアという英国車のエンジンの時代を作った。基本的にはRAC規則はエンジンの大きさに基づく年間課税に道を開くものであり、1947年1月1日に施行される事になっていた。しかし1年後、これは一律年間10ポンドに置き換わる |
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