MGB in Aussie
問:「MGBの生まれ故郷はどこでしょう?」
答:「イギリスのアビンドン・オン・テームズ」
採点:間違いではないが、満点ではない。何故ならイギリス以外で生まれたMGBが1万台以上存在していたから。
「CKD」という言葉をご存知だろうか?
「Completely Knocked Down」の略で、日本では通例「ノックダウン」と呼ばれている生産方式の事である。主に国内産業の育成/保護のため完成車輸入に多額の関税がかけられているような国への輸出の際に採用される方式で、部品の形で輸入された機械製品を国内で組み立てて販売する方式である。その際に国内で調達可能な部品については採用したり、組み立て作業者を雇う事で国内の雇用を促進したり、一定の現地化率を課す事で国内産業の育成を図ったりする事にも利用されることが多い。自動車業界では多用されている方法で、自動車産業黎明期の日本では日産/いすず/日野などが欧州メーカーの車両のノックダウン生産を行っていたし、今でも東南アジア各国に対する日本車の輸出では行われている方法である。
MGBが生産されていた時期(特にその初期)は、大英帝国はまだその最後の輝きを留めていた時期でもあった。その中でも特にオーストラリア連邦は国旗にもユニオン・ジャックがあしらわれているように英国との結び付きが深く、BMCの子会社も存在していた。そのBMCオーストラリアでは、9年間で総数9000台余りのMGBトゥアラーが生み出されたのである。
MGBのオーストラリアにおける生産拠点はアデレード近郊のエンフィールドにあったプレスド・メタル社(ここ自体が英国のプレスド・スティール社の子会社)と、シドニー市内のゼットランドにあったBMCオーストラリアの2ヶ所にあった。しかしこれは同時に生産していた訳ではなく、1963年4月4日〜1968年2月25日までが前者、1968年2月26日〜1972年11月6日までが後者で行われていた。(余談だが、現在シドニー市ゼットランドにはこのBMCオーストラリアは存在しないのだが、面白い事に通りの名としてモーリスやオースティンが残されている)
MGBのノックダウン生産はアビンドンから無塗装ボディ/Bタイプ・エンジンを含むパーツを輸出し、オーストラリア現地でタイヤやガラスや電気系部品などを調達し、組み立てられた。その際当然現地(ゼットランド工場)でボディの塗装が施されたのだが、その色は本国生産仕様とは厳密には異なる色が用いられた。後に内装トリムなどは地元製に切り替えられて現地化率が引き上げられたが、それでも最終的に45%に留まり、この事が本国よりも8年も早く生産が終了する原因の一つとなった。
オーストラリア産MGBの本国仕様との大きな違いは、実はそう多くはない。ボディ下地の防錆処理方法が本国仕様よりも丁寧である事は目立たないが重要な相違であり、また前述の現地調達部品ももちろん本国とは異なる部分である。それ以外は上記のボディ塗色の差や、1968年モデル以降におけるドア・トリムのエンボス・パターンや、テール・エンド(左Rrオーヴァ・ライダー直上)に付けられた「Mk.2」のエンブレム(実に全MGBで唯一の公式Mk.ナンバーである)、それにAT車やOD付車においてトランク・リッドのオクタゴンの下に付けられた「Automatic」や「Overdrive」のエンブレム程度である。
因みにラジエターの前のボディ・パネルには、オーストラリア製である事を示す専用のシリアル・プレートがリベット留めされている。
<2012年4月追記>
MGBメッキバンパー・モデルにおいてしばしば議論の対象となるのが、前部コンビネーション・ランプ(方向指示器+車幅灯)の左右配置である。別項にも詳しいが、具体的には向かって車両外側に白色の車幅灯/内側に橙色の方向指示器というのが、カタログ等で確認できる配置である(一部レーシング・モデルなどでは逆配置で取り付けられている例も確認できる)。
しかし本国MGCC会報「Safety-Fast」の2012年4月号に掲載された「MGB豪州ノックダウン」に関する記事と写真の中に驚くべきものを見付けた。それが下のものである。
これは1968年のゼットランド工場での生産開始時(“Mk.2”)に撮影されたものとされる。
特に始めの写真に明確なのだが、ヘッドライトと共に明らかにコンビネーション・ランプの「内側」が点灯しているのが分かる。時期的にハザード・ランプ機能は装備前なので、点灯しているのは車幅灯であろうと推測できる。また後の写真をよく見ると、立体形状や色の濃淡から内側が車幅灯となっている事が見て取れる。記事の内容を読むと、1969年のレイランドグリル・モデルへの改良時までこの状態は継続されたと記載されている。
Mk.1では逆であったとの記載であり、なぜわざわざ逆にしたのかは明記されてはいない。一説では欧州の灯火器規制でヘッドライトと車幅灯の点灯中心線の左右が一致する事という条件があったためとも書かれているが、本国ではこうした対応は見られないことからこの説は素直には受け入れにくい。
結局理由のほどは不明なままなのだが、豪州製MGBにおいては一時期前部コンビネーション・ランプの配色がそれ以外と逆であった、という事実は事実として残るのである。
<オーストラリア製MGB塗装色一覧>(”MGB” by David Knowles)
原注:このリストはブルース・コリンズ氏から供給された当時のBMC/レイランド・オーストラリアの塗料表から書かれたものであり、複数のオーストラリアの情報源からの情報を元にしている事から正確であろうと信じられるが、本稿を書いている時点で決定的に正確な確証を得られるMGB仕様書がないため、他にもリスト化されるべき確かな色があるかも知れない。導入された日付はあるが、廃止された日付は定かではない。
@1963年〜
色名 |
デュラックス社 色コード(色番号) |
カーネイション/モンツァ・レッド |
09864 |
ニュルンベルグ・ホワイト |
02191 |
ワンガラ・グレイ |
00434 |
ブラック |
A1964年〜
色名 |
デュラックス社 色コード(色番号) |
モス・グリーン |
06709 |
ブリティッシュ・レーシング・グリーン |
00862 |
スカイ(モナコ)ブルー |
09921 |
タータン・レッド |
06171 |
B1966年〜
色名 |
デュラックス社 色コード(色番号) |
バーガンディ |
08999 |
マリーン・ブルー |
08449 |
C1967年〜
色名 |
デュラックス社 色コード(色番号) |
インディゴ・ブルー |
10084 |
ジェイ・ブルー |
10085 |
レイク・グリーン |
10083 |
スノゥ・ホワイト |
10080 |
スペシャル・バーガンディ |
10086 |
D1968年〜
色名 |
デュラックス社 色コード(色番号) |
ダフォデイル・イエロー |
10618 |
GTOグリーン |
10238 |
サンダウン・レッド |
10886 |
E1969年〜
色名 |
デュラックス社 色コード(色番号) |
カデット・ブルー |
11703 |
ポートフォリオ・ゴールド |
11579 |
F1970年〜
色名 |
デュラックス社 色コード(色番号) |
カリプソ・プリムローズ |
11578 |
カノート・グリーン |
12178 |
ジェット・レッド |
11574 |
カミーノ・ゴールド |
12137 |
ダマスク・レッド |
12135 |
クリスタル・ホワイト |
11572 |
G1971年〜
色名 |
デュラックス社 色コード(色番号) |
カディス(青) |
12627 |
ガンビア・ターコイズ |
12626 |
ペール・プリムローズ |
13307 |
ステラ・ブルー |
12134 |
本国生まれと豪州生まれのMGBの間の最も大きな違いは車体型式記号かも知れない。豪州製MGBは本国仕様とは異なる記号と、本国とは関わりのないナンバリングを与えられていたのである。MGBを始め、MGに関する好著を幾つも物しているデイヴィッド・ノウルズ氏の手になる、その名も「MGB」という名の書籍に記載されているその記号と生産台数は以下の通りである。
<年別販売台数(完成品輸入により販売されたMGB/GTを含む)>(”MGB” by David Knowles)
年 |
台数 |
年 |
台数 |
|||
1963 |
444 |
1968 |
1026 |
|||
1964 |
802 |
1969 |
1089 |
|||
1965 |
915 |
1970 |
1053 |
|||
1966 |
1084 |
1971 |
883 |
|||
1967 |
1228 |
1972(73) |
800 |
合計:9324台 |
<タイプ別生産台数>(”MGB” by David Knowles)
タイプ |
型式番号 |
シリアル |
エンジン |
期間 |
台数 |
Mk.1 |
YGHN3 |
501〜5559 |
18G/U/H 18GA/U/H(64/8〜) 18GB/U/H(65/3〜) 18GB/RU/H(68/5〜) |
63/1 〜68/8 |
5059 |
Mk.1(OD) |
YGHN4 |
501〜757 |
18GD/WE/H |
67/6 〜68/9 |
257 |
Mk.2(OD) |
YGHN5 (後YHN5) |
758〜2276 |
18GD/RWE/H |
69/1 〜70/8 |
1519 |
Mk.2 |
YGHN6 (後YHN6) |
501〜860 |
18/GD/WE |
69/1 〜70/5 |
360 |
Mk.2(AT) |
YHN7 |
501〜656 |
18GD/RC/H |
69/1 〜70/11 |
156 |
Mk.2”MGBL”(OD) |
YHN9 |
501〜2162 |
18GG/RW 18GG/RWE/H(72/6〜) |
70/6 〜72/11 |
1662 |
Mk.2”MGBL”(AT) |
YHN10 |
501〜572 |
18GG/RC/H |
71/3 〜72/2 |
72 |
合計 |
9085 |
@
5ベアリング・エンジン(オイル・クーラー付)は1966年1月のYGHN3/2539から導入
A
異なる情報源はYGHN5シリーズは異なる番号から始まったと示唆している。ジョン・リンゼィ氏(この生産記録の情報源の一つである。元BMCオーストラリアのライン・ワーカー)はここに記したように最初の車は#758からとしているが、異なる情報源は他の型式と同じく#501からとしている
B
Mk.2のフェイスリフト・モデル(レイランドグリル・モデル)が「MGBL」と呼ばれているが、そうしたバッジは付いていない
C
「YHN8」は使用されていない。おそらく「8」と「3」の間の紛らわしさのためであろう
D
記録上はYHN9の最終号車は#2158とされているが、より後の#2162という車両が現存している
E
アンダース・ディトレヴ・クラウゼーガー氏による「ORIGINAL MGB」では9090セットのMGBのCKDキットがオーストラリアに送られたと主張した。ジョン・リンゼィ氏はこの間の5台の矛盾は破損車両/治具開発用/補給部品として計上されていると信じている
上記表の中で車両型式記号の頭の「Y」がオーストラリア製を示している記号である。これはBMCオーストラリア独自の開発車両に与えられるプロジェクト・コードも同じで、良く知られた本国BMCにおける「ADO」ナンバーの代わりに「YDO」ナンバーだったのだという。本当なのか冗談なのかは分からないのだが、これは「A」を逆さにしたものとして「Y」を使ったのだという。因みにオーストラリアのイギリスにおけるアダ名(蔑称に近いかもしれないが)は「Down-Under(上下アベコベ)」という。
このシャーシィ・ナンバーが打たれるシリアル・プレートも当然オーストラリア産独自で、「British Motor Corporation Australia Pty.ltd」と標記されて右のインナー・フェンダー上にリベット留めされている。
豪州製MGBの1号車は1962年11月頃にアビンドンからキットの形態で輸出され、1963年4月4日にプレスド・メタル社エンフィールド工場をライン・オフした。YGHN3−501号車であるこのクルマは、ボディカラーがニュルンベルグ・ホワイトに青の内装+白のパイピングと言われている。一方最期のMGBとされているのは白いYHN9−2162号車で、1972年11月6日のこのクルマのライン・オフにあたっては(いささか酔狂なことに)社会福祉大臣まで引っ張り出して墓石まで用意するという念の入った葬儀が執り行われた。
オーストラリアにおけるMGBの生産終了は、前述のように新しく改正される関税規則の中で85%に引き上げられる事になった優遇措置を受けるための現地化率を到底満たす事が出来ないと判断された事が原因の一つだが、要するにそれはMGBの豪州における販売台数が少なかったという事を意味している。実際に前述の販売台数表を見ていただいても、最も販売台数の多かった年ですら月平均に直すと100台程度。販売されていた1963〜73年の10年間の通算の平均では年間932台、月平均でわずか78台にすぎない。これでは採算が合うはずもないのは明らかである。
因みにもう一つの要因とされているのがMGBのラインを新しい車種の生産に切り替える必要があったという事である。
その車種とはレイランド・オーストラリアのオリジナル車種で、アメリカのビッグ3系車種の独占状態だったフルサイズ・サルーン市場に打って出るためのモデル「レイランドP76」だった。かつてはイタリアン・デザインの雄であったジョバンニ・ミケロッティにデザインが委ねられ、直6−2600ccと4.4リッター仕様のローヴァV8が与えられたそのクルマの広告写真がこれである。
このクルマは1973年に発売されたが、結果的にはMGBの生産が終了したわずか2年後の1974年10月に、BMCオーストラリアから再編成されたレイランド・オーストラリアはこのゼットランド工場ごと閉鎖することになった。
あたかもそれはこの後本国のブリティッシュ・レイランドが辿る事になる苦難の道程を予告するかのようであった。
MGBを本国以外でノックダウン生産していたのは豪州だけではなく、ベルギーとアイルランド共和国でも行われていた。
しかしその規模はベルギーがトゥアラー/GT合わせて1964年5月〜1968年8月までトゥアラー876台+GT104台の合計1004台、アイルランドが1964年12月〜1966年3月までトゥアラー188台+GT216台の合計404台と遥かに小規模である。
また仕様も現地で施されたボディ塗装色も含み本国仕様とほぼ同じで、オーストラリア産とは異なり独自のシリアル・ナンバーも与えられてはいないようである。